思い切りの良さがなかった 北条氏政
北条氏政といえば、軍記物に見られる「汁かけ飯」の逸話が有名である。
小田原北条氏3代目当主の氏康と、その嫡男の氏政が、小田原城内で一緒に食事を取っていた時のこと。氏政は、飯に汁をかけて食べようとするのだが、かける分量をうまく見積もれず、食べてはかけてをくり返していた。それを見た氏康が、「飯をかける汁の量も測れんとは、わしの代で当家も終わりか」と言って嘆いたという。
氏政は、思い切りの良さに欠けていた。しかし、氏政の慎重さも物語っている。
北条氏政は、小田原城を本拠地にする
戦国大名、北条氏の四代目である。
天文7年(1538)、北条氏康の次男として生まれた。氏康の死んだ、34歳の時、名実ともに、北条氏の当主になった。
はじめの仕事は、越後の上杉謙信と結ばれた越相(えっそう)同盟を解消し、甲斐の武田信玄との同盟を復活させることだった。
信玄が甲相駿(こうそうすん)三国同盟を破棄し、駿河に攻め入って今川氏を滅ぼした。これに怒った北条氏康が、武田との同盟を破棄し、上杉氏と越相同盟を結んだ。
武田信玄が京都への上洛戦の途上で死去することで、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、下総(しもうさ)、武蔵を舞台に、北条・上杉の衝突が頻繁になる。
紆余曲折の末、謙信が武蔵国から全面撤退することで、北条氏の武蔵・下総の完全領有が成った。
それでも、佐竹・宇都宮・結城氏らを中心とした「東方衆一統勢力」は、根強い抵抗を示し、謙信に越山を要請し続けていた。
その謙信が、春日山城内で死去した。
北条・上杉両氏が同盟をした時、北条氏康は、七男の三郎を人質に出していた。
その三郎が謙信に気に入られ、謙信の初名(ういな)である景虎(かげとら)という諱(いみな)まで、もらったが、正式な後継候補に指名を受ける前に、謙信が死去した。
そのため、同じく後継候補の上杉景勝(かげかつ)との跡目争いが、始まった。御館(おたて)の乱である。
その景虎が、敗死したことで、北条氏
の行く末に暗雲が立ち込める。
この乱で、武田信玄の後継者、武田勝頼が上杉景勝に味方したため、氏政は、上杉・武田の両氏を同時に敵に回してさまい、窮地に立たされた。
そこで、氏政は、織田信長に誼(よしみ)を通じる。嫡男の氏直の正室に、信長の娘を迎える約束までした。
天正10年、織田・徳川・北条連合軍は、武田領へ同時侵攻を開始する。
武田勝頼は、天目山麓田野で自刃、ここに武田氏は滅亡した。
ところが、信長は、北条氏には、恩賞を与えなかった。
そして、本能寺の変で、信長が倒れ、織田政権の関東総奉行・滝川一益と一戦に及び、撃破。甲信の地を徳川家康に明け渡すかわりに、上野国の領有を認めてもらった。
しかし、家康傘下の真田昌幸は、上野国の所領(吾妻・沼田両郡)を北条氏に引き渡さず、上杉傘下に転じたため、家康が怒って、真田昌幸の上田城まで、兵をおくるが、惨敗。北条氏の上野国完全領有は、かなわぬ夢になった。
家康は、小牧・長久手合戦で豊臣秀吉と衝突したが、秀吉が長宗我部元親や佐々成政など次々と斬り従えたため、秀吉に臣従した。
秀吉は、信長政権以来、北条氏を滅ぼすことが、既定路線であり、それを薄々感じとっていた氏政は、「和戦両様」の構えをとりつつ、外交交渉を続けた。
秀吉と一戦を避けがたい状況となったため、商人町や農耕地を小田原城内に取り込み、半永久的に籠城戦を目指した「惣構(そうがまえ)」を構築した。また、氏政は、拠点戦略にも長けていて、これまでも緻密な城郭網の構築を進めてきた。
この方針は、「領民の生活ごと守っていく」という、初代、北条早雲の理念を実践している。
結局、北条氏は、滅亡する。
しかし、北条氏政という武将が、凡庸だったわけではない。
軍才では家康には及ばないが、外交面では家康を上回った手腕を発揮した。
しかも、家康以上に領国統治に力を注ぎ、在地国人や農民から収奪するのではなく、彼らと共存共栄を目指したのは、現代の価値観からも評価できる。
検地と所領役帳を基盤とした領地システムを完成させた。政治家としても一流だった。
なぜ、氏政は北条氏を滅亡したか?
慎重で手堅くありすぎ、「思い切りのよさ」が、なかったためであろう。
また、時勢であったのかも、知れない。
索引 敗者列伝 伊東潤 著
(株)実業之日本社 2016年