見出し画像

 多摩出身の新撰組隊長 近藤 勇 ①

 近藤勇、天保五年(1834)、武蔵調布上石原(東京都調布市)に生まれた。
 父を宮川久次という。剣を江戸試衛館の剣士・近藤周斎に学び、後に周斎の養子となった。
 幕末にあたり、諸藩浪士の跳梁(ちょうりょう)が、はなはだしく、幕府は、その懐柔統制のため、広く浪士を募集した。その数は約250名に達した。
 清川八郎をもって領袖とした。勇は、試衛館の剣士、山南敬助(やまなみけいすけ)、土方歳三、沖田総司らと共に参加した。
 文久三年(1863)、将軍・徳川家茂が京都へ上洛するので、浪士組は前もって警備するため、京都に入り、洛西壬生(らくせいみぶ)に、駐屯した。勇は、八木源之丞(げんのじょう)の家に宿泊することになった。
 浪士隊は、京都に着くやいなや、清川八郎の策謀によって、江戸においてコトを起こそうとしていて、幕府も、浪士たちが擾乱(じょうらん)を起こそうとしているため、彼らを江戸に送還せしめようとした。
 浪士らは、清川八郎に従って江戸に行くものが多く、芹沢鴨(せりざわかも)、新見錦(にいみにしき)、近藤勇ら二十余名のみ、京都に残った。
 彼らを京都守護職・松平容保(まつだいらかたもり)の配下にして、壬生に居を構えさせた。これを新撰組という。
 江戸に帰った浪士組は、新徴組(しんちょうぐみ)という。清川八郎は、江戸麻布において、幕府見廻り組に暗殺された。
 新撰組は壬生浪士と称し、芹沢鴨と近藤勇が統率をして、同志を募り、その隊を編成し、隊内の法を厳しくし、もっぱら肝を練らしめ、誠の字を用いてその隊旗とした。
 文久三年(1863)八月の政変は、長州藩及び攘夷の一党が一掃され、公家の三条実美(さんじょうさねとみ)の天皇への朝参をとめ、長州藩の堺町門警衛を解かれた。
 世にいう七卿落ち(しちきょうおち)の大政変であった。
 七卿落ち、長州藩退京についで、盛んに失脚の志士の京都での暗中飛躍が行なわれた。
 このため、京都における警戒がすこぶる厳重となって、遂に新撰組に命じて京都市中の警邏(けいら)を行なわしめ、
もし反抗する者があれぱ、斬り捨てても差し支えなしと許された。これが、新撰組の浪士狩りを始める動機であった。
 近藤は横暴な振る舞いの多い、隊将・芹沢鴨を土方、山南、沖田らと共謀して倒し、新撰組の唯一の隊長となり、土方、山南が副長になって、これを扶けた。
 幕府は勇を御番頭取にし、副長らをそれぞれ、相当した格を与えた。
 そして、近藤勇の驍勇を世に宣伝せしめたのは、池田家襲撃の一挙である。

〜多摩出身の新撰組隊長 近藤 勇 ②〜へ続く。


索引 幕末・明治名将言行録[詳注版]
   近世名将言行録刊行会 編
   株式会社 原書房 2015年



 



いいなと思ったら応援しよう!