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多摩出身の新撰組隊長 近藤 勇 ②
近藤勇の驍勇を世にしらしめたのは、
池田屋襲撃の一挙である。
道具商・桝屋喜右衛門(ますやきえもん)こと、古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)を捕らえ、拷問によって、幕府反対派の志士の恐るべき計画が発覚した。
それは、烈風の夜を選んで、禁裏(天皇・公家かいる所)の風上に潜行して、火を放ち、場合によっては禁裏の四方を火をもって、取り包むのみか、中川宮にも放火して、これに驚いて参内する京都守護職・松平容保(まつだいらかたもり)を襲い、また、反長州系諸大名を襲い、いきおいに乗じて禁裡へ推参して、
天皇を長州へ御動座し奉るという大密謀である。
古高俊太郎が捕らえられたと知って、
志士の中で、古高を新撰組の屯所を襲って、奪いかえそう、または、すぐ焼き討ちをやろうなど、様々な意見が出るので、1回、集まろうということで、池田屋に集まった。
それを探っていた新撰組は、元治元年(1864)六月五日、午後十時、隊を2つに分け、一隊を土方歳三に率いさせ、三条縄手四国屋へ向かわしめ、勇は会津藩兵がくるのが、あまりに遅いので、沖田総司・永倉新八・藤堂平助・勇の養子の
近藤周平たち四名と共に、池田屋の屋内へ突入した。
乱闘力戦の末、七、八人を殺し、四、五人を傷つけ、逮捕者二十数名に及んだ。二時間による激戦。新撰組の猛者たち、名人の沖田総司は戦いの半ばに、持病の肺が悪くなって、ひどい喀血をして
昏倒した。永倉新八も着込みの襟から胸のあたりを、ボロボロに切っ先でやられ、いつの間にか、左の手の親指の付近の肉をすっぱり切り落とされていた。
藤堂平助は眉間(みけん)から小鬢(こびん)のあたりを、深く、一太刀やられた。勇の名刀・虎徹(こてつ)は無事あった。
襲撃を受けた志士側の頭目・宮部鼎蔵(みやべていぞう)、吉田稔麿(よしだとしまろ)などは、殺された。
この池田屋騒動で、怒った長州藩。朝敵になっているので、その名誉回復のため、兵隊を京都に繰り出した。禁門の変である。勇は新選組を率いて、会津藩と共に、蛤御門で長州藩兵と激突。
会津藩は劣勢だったが、薩摩藩の兵が現れると形勢逆転。長州藩は敗退を繰り返した。
幕府は、新撰組を率いている、勇を
見廻り組組頭格にして、土方を見廻り組肝煎(きもいり)格にした。
これらにより、新撰組参謀・伊東甲子太郎(いとうかしたろう)は、勇と袂をわかち、同志の新選組隊士と共に、新撰組を去って、高台寺に駐屯して勤王を唱た。高台寺党という。
勇はその伊東甲子太郎を寓居(ぐうきょ)に誘い、酒食を饗応して、帰路、伊東を刺殺し、その死屍(しかばね)を、七条油小路に横たえ、高台寺党の輩を待ち伏せ、これを殲滅した。
幕府の高官・永井玄蕃頭(ながいげんばのかみ)の招きの帰路、高台寺党の伊東の残党に銃で狙撃され、弾丸、勇の肩を貫いて重傷を負わす。
そのため、鳥羽伏見の戦いには、出陣できず、土方歳三に新撰組を率いさせた。幕府軍敗北、徳川慶喜、江戸に帰るや勇も船で江戸に帰った。
江戸で鳥羽伏見の戦いで、勇は、生き残った新撰組らを率い、名前を大久保大和(おおくぼやまと)とし、隊名を鎮撫隊と改め、甲州を占領しようとしたが、官軍に敗れた。
隊員、多くは東北の会津藩へ走った。
勇は土方と謀って、脱走兵を集め、下総流山に駐屯した。
明治元年(1868)、官軍、流山の駐屯軍を包囲する。
勇は官軍の参謀・香川敬三(かがわけいぞう)の口車に乗り、官軍の陣営に赴いたが、変名・大久保大和は、近藤勇なりと見破られ、官軍の計略に陥れられ、捕縛された。
板橋で首を切られた。
死に臨んで、言い逃れをせず、自ら髻(もとどり)をあげて、甘んじて、刀を受けた。
索引 新選組始末記 子母沢寛 著
中央公論新社 1977年
幕末・明治名将言行録[詳注版]
近世名将言行録刊行会 編 (株) 原書房 2015年