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早稲田大学を作っただけではない 政治家 大隈重信 ②

  明治新政府の参与に抜擢された、大隈重信。
 大隈の仕事の始めは、未経験の財政・会計分野だった。
 明治政府の財政を取り仕切っていた
由利公正(ゆりきみまさ)は、戦費調達と維新政府の資金不足を補うため、金札(太政官札)と呼ばれる不換紙幣(ふかんしへい)を濫発していた。しかし、不換紙幣は、正貨(金銀などの貨幣)と交換ができる紙幣ではないので、市中の信用が得られず、人々は額面より大幅に安い相場で正貨と交換せざるを得なかった。
 外国人商人が日本人商人から金札を受け取り、それを正規のルートで正貨に交換できないと知り、公使館に抗議が殺到した。
 大隈は、由利を辞任に追い込み、この問題の解決に邁進する。紆余曲折の末、
大隈の貨幣政策は功を奏し、明治政府は、最大の難題を解決することに、成功する。

 近代化を図る上で、物流の重要性は、計り知れない。
 日本は四方を海に囲まれているため、海運や河川舟運が物流を支えてきた。
だが、川のない場所に物を運ぶには、
鉄道が必須だった。
 大隈らは、東京を起点とし、東海道沿いに京阪を経て、神戸に至る幹線と、京都から敦賀に至る支線の敷設を第一期計画とした。
 大久保利通は、コストに不満で反対したが、明治二年、鉄道の敷設は閣議決定された。
 問題は、資金だったが、イギリスの英国公使パークスの紹介で、オリエンタルバンクが支援に入り、イギリスとの借款契約を結んだ。
 外債公募から約二年を経た明治五年(1872)九月、東京・横浜間の鉄道開業式が行なわれた。
 鉄道の敷設が日本にもたらしたものは大きかった。鉄道が新時代到来の象徴となり、国民全体の意識改革につながった。
 大隈は、単にビジョンを提示するだけでなく、実現に至るまでのロードマップを描けるところに強みがあった。
 そこには、「どこからいくら借りて、いくら儲けて、いつまでに返す」といった資金計画まで、綿密に練られいた。
 大隈は、幕府が締結した不平等条約に
目が向いていたが、その条約改正の予備交渉の使節団(岩倉使節団)から、外されていた。
 そのため、外遊している岩倉使節団の留守政府で、財政・地方制度の統一、裁判権の独立、学制の制定(義務教育
制)、四民平等の布告などの近代国家建設のために必要な改革を、大隈は断行する。
 岩倉使節団が、帰国すると、政府内は分裂した。明治政府という描きかけの画布に何の断りも無く、続きを描かれた大久保利通は激怒し、西郷隆盛や、江藤新平らの参議に辞表を出させた。
 そして、佐賀の乱、西南戦争を経て、大久保利通の有司専制体制は確立されたが、その大久保も暗殺される。

 明治十四年の政変で、大隈は政府を追放された。
 下野した大隈は、立憲改進党の総理になる。また、東京専門学校(のちの早稲田大学)を創設し、政府の影響下にない
私学による教育に踏み出した。
 十余年を野党として政治活動をしていた大隈だったが、一度は、板垣退助と組閣した、隈板(わいはん)内閣を失敗させたが、二度目の組閣を意識しはじめ、
大正三年(1914)、第二次内閣を組閣する。この内閣は、二年半という期間だったが、外交面でも財政面でも、実績は上々だった。
 そして、大正十一年(1922)、大隈は
永眠する。享年八十五だった。

 大隈重信には、一貫した目標があった。
それが、「近代化の促進」、「藩閥政治の打破」、「議会制民主主義と立憲主義の導入」などで、それらが実現されてからは、後半生から晩年にかけては、「民主主義の定着」「軍部の暴走阻止」「人材育成=学校の創設」を目標に掲げた。
 「軍部の暴走阻止」だけは、年齢的に無理だったので、原敬(はらたかし)らの後任に託さねばならなかったが、その他の目標は、ほぼ達成できた。

 大隈重信は、すごく沢山の政策に関わっており、早稲田大学創設だけの人では、ありませんでした。自分の能力を使い切り、動乱の時代を駆け抜けていきました。


索引 英雄たちの経営力 伊東潤 著
   (株)実業之日本社 2023年

  
 


  

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