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つかみどころのない人  西郷従道 ②

 明治四年、琉球の民が台湾に漂着して、
蕃族(原地の人)に殺された。清国は、
我関せず、の態度をとったので、日本国は台湾征討を決め、西郷従道は、司令官として、出港した。
 明治七年五月二十二日、従道、台湾の極南、琅キョウ(現在の恒春)に着き、
本営を山麓にしき、兵を進めて蕃族を征討した。
 ここは、上蕃社十八、下蕃社十八、のべ三十六社、その中で牡丹社を最も凶勇とする。
 従道、これらを数日で、石門の険を破って全社を降伏させた。これによって、
従道都督の威名は全蕃社に響き、蕃人らは、震え上がって恐れ、戦慄した。
 しかし、親しく、従道都督に接してみると、聞くと見るとは大いに違い、温和にして春風が吹いているような親しみがあったので、諸蕃人、みな、帰服した。
 牡丹蕃社の民、人につげていわく、西郷都督は、神様である。石門の戦いに、山越しに天から大砲玉の雨を降らしたと。従道の威徳、長く蕃民に伝わって崇敬の的となった。
 征台の後、さらに清国と折衝するべく、大久保利通を全権弁理大臣として、清国に派遣され、従道、副使となって共に赴いた。
 正使利通と清国代表と談判する間は、従道は、沈黙して口を挟まず、その後、清国の有力者、政治家 李鴻章が正副史を招いて、盛宴を張った時には、従道、破顔一笑、李鴻章の前に進み出て、手を握って、清国皇帝の万歳と李鴻章万歳を大唱した。
 李鴻章、後に従道を評して、彼は神様が人間に化けたような人物であると。
 従道が台湾を去るにあたって、蕃民、
惜別の情ふかく、テラソ社の頭目、
ハンブキは、銀製の腕環を従道に贈った。従道、常に蕃民の至情を愛し、
その腕環は、永く左の手首にはめて、
片時も離さなかった。
 従道、台湾より凱旋の後、鹿児島に至り、城西武村の隆盛の家を訪ねた。
滞在三日にして、去ったが、これが
兄弟、終天の訣別であった。
 明治十年の西南の役では、西郷隆盛は賊軍、従道は、官軍として対峙した。骨肉の争いで、その従道の苦衷は、いかばかりであったか。
 従道、幾度となく、陸軍、海軍、農商務、内務の大臣となった。
 憲政党内閣のとき、総理大臣、大隈重信が従道の人と成りについて、述べている。重信いわく、従道は、貧乏徳利の如き人である。大名高家にも必要であり、
路地裏の裏店にも、無くてはかなわぬ人物であると。
 また、薩摩の川上操六、長州の桂太郎は日本陸軍の双璧であり、薩長の麒麟児であった。この二人、時を同じくして、
陸軍中将にのぼり、そのお祝いの宴があった。みな、ほめそやしたが、終わりに従道、起ちて、
「桂は山県(有朋→陸軍の親分)さんをだまし、川上は、この私をだまして、陸軍中将になりました。」と言い放ち、
いる人、みんな笑い倒れた。

 この西郷従道、明治三十五年七月十六日に、六十歳で亡くなった。


索引 幕末・明治名将言行録
   近世名将言行録刊行会 編            
   2015年






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