信長・秀吉 御茶湯御政道
安土・桃山時代は、世界史的に貨幣制度が混乱した時代だった。日本国内で流通してきた銅銭と反比例するように、明での銅の産出量が減ってくることで、銅銭の絶対量が不足してきた。
日本の石見銀山で採掘された銀が、灰吹法(はいふきほう)という精錬技術の導入によって生産量を爆発的に伸ばし、それを明に輸出することで、世界経済が
回り始める。日本で産出した銀が大陸に渡り、銅貨から銀貨への転換を促した。
こうした経済のグローバル化によって日本は豊かになり、富裕層が形成されていく。堺商人などは、その典型で、働かなくても裕福になり、その余暇を趣味に費やすようになる。
こうして、安土・桃山時代が百花繚乱のごとく咲き始める。その中から生まれてきたのが茶の湯だ。
織田信長は天下統一を目指していたが、天下統一ともなれば、様々な戦いで
功を上げる者が多く出てくる。そうななると分け与える土地が足りなくなるのは、自明の理だ。
当時は、関東・濃尾・河内平野といった広大な沃野でも、河川氾濫で泥湿地となっている場所が相当あった。
こうしたことから信長は、土地以外の
何かを武功のあった者に恩賞として分け与えようと思った。その頃、宣教師たちから、欧州では恩賞に美術品が贈られることを聞いたのだろう。
そこで信長は、「御茶湯御政道(おちゃのゆごせいどう)」を思いついた。
つまり、茶の湯の張行(ちょうぎょう)を認可制にし、武功を挙げた武士には、
「東山御物(ひがしやまぎょぶつ)」に名を連ねる名物を与えることにしたのだ。これにより信長の「名物狩り」が始まる。
「東山御物」とは、室町幕府八代将軍・足利義政が集めた唐渡りの「大名物」のことで、唐絵、漆器、花瓶、茶碗、茶壺、茶入など、多岐にわたる。信長は、これらを献上させ、買いあさり、
時には取り上げた。
信長が、これらをしているうちに、家臣たちも、価値があると思い込み、土地に代わる恩賞として、茶道具が珍重されるようになる。
その効果は絶大で、茶の湯の認可と茶道具一式を拝領して、狂喜した秀吉や、
滝川一益が、甲州征伐の功で、上州一国をもらった際、信長に『珠光小茄子(じゅこうこなす)』を所望したが、遠国に行かされ、茶の湯冥加も尽きたといって、嘆いているほど。
ところが、「茶湯御政道」が、軌道に乗り始めたところで本能寺の変が起こる。多くの名物が、本能寺の業火に焼かれ、「茶湯御政道」は頓挫してしまう。
だが、秀吉は、賢かった。名物が無ければ、焼いたばかりの今様(新品)を名物にすればよいと気づいたからだ。
しかし、それを可能にするには、今様を名物と認定する権威が必要だった。
そこで、千利休の登場となる。
利休は、豊臣政権の文化面を担い、
「侘茶(わびちゃ)」、「大寄せ」「吸茶」という茶会形式、そして「禁中茶会」や「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」というイベントにより、茶の湯の一大ブームを作り上げた。
しかし、金の卵を産み続ける千利休を
秀吉は殺してしまう。それは、利休がいなくても秀吉自身で、できると思い込んでしまったからだ。
つまり、秀吉は、現実世界と精神世界の双方の覇者になろうとした。
これが、安土・桃山時代の茶の湯のムーブメントの顛末だ。
茶の湯を武士の恩賞にと、思い立った織田信長は、天才であった。
索引 英雄たちの経営力 伊東潤 著
(株)実業之日本社 2023年