早稲田大学を作っただけではない 政治家 大隈重信 ①
江戸時代の末期、1838年に佐賀藩に産まれた大隈重信(おおくましげのぶ)。この人は、早稲田大学を作ったことで、有名だ。
佐賀平野という豊かな大地、日本の表玄関・長崎に近く、「蘭癖大名」と呼ばれた佐賀藩主・鍋島閑叟(なべしまかんそう)が作り出した進取の気風が、大隈を育てた。
六歳で佐賀藩の藩校の弘道館の外生寮(通いの学校)に入った大隈は、目立たない少年だったが、内生寮(寄宿生)に進学してから、頭角をあらわし始めた。
嘉永六年(1853)のペリー来航は、
佐賀藩にも衝撃をもたらした。この時、十六歳だった大隈は、友人たちと政局などを論じるようになっていた。
青年期の大隈の思想に大きな影響を及ぼしたのが義祭(ぎさい)同盟だ。
これは、国学者の枝吉神陽(えだよししんよう)が主催する政治結社の原型のような集団で、「神州日本において君とは天皇だけで、将軍や藩主は主にすぎない」という「日本一君主義」を唱え、佐賀藩内で尊王論の先駆けとなっていた。
義祭同盟には、神陽の弟の副島種臣(そえじまたねおみ)、その友人の江藤新平や大木喬任(おおきたかとう)ら、後に維新政府で活躍する面々も加盟しており、佐賀藩の尊王思想の中核となる。
でも、攘夷論(外国を打ち払う)ではない。地理的に長崎が近いので、外国の情報が入ってくる。
また、鍋島閑叟が開明的で、西洋諸国の文物に積極的で、佐賀藩内は、自然に開国を前提とした挙国一致体制の樹立という思想が作られた。
その後、大隈は洋学を志して、弘道館を退学し、蘭学寮で学ぶようになった。
文久二年(1862)頃の大隈の国家ビジョンは、「天皇と朝廷を中心とした国家体制を樹立し、列強と貿易して力をつけていく」というものだった。
長州藩は外国船を砲撃する暴挙に出た。だが、長州など尊攘派勢力は、薩摩藩、会津藩ら公武合体勢力に京都から駆逐された。
この頃の大隈は、佐賀藩の貿易事業に携わっていた。佐賀藩の特産品を売り、列強から艦船や機械を購入する仕事だ。
この頃に学んだ国際的な貿易ルールや外国商人との交渉術が、後年、大いに役立つことになる。
慶応二年(1866)の幕府の第二次長州征伐の失敗は、幕府の屋台骨を揺るがすほどで、幕府の先が見えてきた。
大隈は鍋島閑叟に新政府の主導権争いに参加させようとするが、閑叟は動かなかった。土佐藩による大政奉還、薩摩藩と岩倉具視による王政復古の大号令により、幕府と薩摩藩、長州藩、両陣営による軍事衝突に突き進む。
慶応四年(1868)、鳥羽伏見の戦いで、惨敗をした幕府に、崩壊の危機が迫り、周囲を敵に囲まれた長崎奉行所は、
江戸へ引き上げた。これにより、長崎奉行所の携わっていた公益事業や訴訟は、全て停止する。そのため、薩長土肥など
十六藩による合議制で、長崎奉行所を運営することになった。この時、佐賀藩の代表として、三十一歳の大隈が使命された。
大隈は旧長崎奉行所の外交事務を一任され、長年解決されなかった諸藩の諸外国との貿易関連の訴訟を2ヶ月で一掃する。大隈の緻密な調査力と公平な態度は、外国人に受け入れられ、大隈の評判は高まっていく。
大隈は、新政府に招聘される。総裁・議定に次ぐ参与に抜擢された。
このときから大隈重信の活躍が、始まる。
〜早稲田大学を作っただけではない 政治家 大隈重信 ② 〜へ続く
索引 英雄たちの経営力 伊東潤 著
(株)実業之日本社 2023年
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?