稀代の正義漢 江藤新平
今回は、幕末、明治時代に活躍した
徹頭徹尾、正義の男。しかも、その正義とは、新たな国家を築くのに、絶対に必要な正義だった。
男の名は江藤新平。
悪を排斥し、正義を執行するために生まれてきた男である。
江藤新平は、天保五年(1834)、肥前佐賀(鍋島)藩の下級武士の家に生まれた。
江藤は身なりなど一切構わず、がむしゃらに書物を読み、知識を吸収するような少年だった。
文久二年(1862)、29歳の時に脱藩して京に上り、志士活動をする。 ところが、当時、脱藩は重罪であり、捕吏につかまり、佐賀に送還され、永蟄居を命じられた。その後、江藤は前藩主・鍋島閑叟の手足となって働き、新政府内における佐賀藩の発言力を確保した。
34歳の時、大政奉還があり、江藤は佐賀藩を代表して新政府軍に参加する。
公家や志士上がりの素人政治家が多い中、江藤のように万巻の書物に通じ、
論理的思考を持ち、なおかつそれを法規として確立できる人材は貴重だった。
しかも江藤は単なる論客というだけではなく、鉄の意志と実行力を持つ「知行合一」を地でいくような男だった。
江藤は頭でっかちな学者タイプではなく、完全な実践派だった。
維新後、まず江藤は文部大輔として文教行政に取り組み、短期間で省内の官制と職掌を定め、「国家が進んで全国に学校を設置して、全国民の教育を行う」という方針に従い、「学制」の原型を作り出す。
その江藤が最も手腕を発揮したのが、
明治五年(1872)四月、司法卿(大臣)になってからである。
江藤は統一的な国家法体系の樹立と、
法規に立脚した行政の実現を目指し、これを「国家富強盛衰の根源」であると
主張した。
近代民主主義国家の根本である法治主義こそ、国家安定のために必須と説いた江藤は、公正にして迅速・簡易な裁判と社会正義の実現を目指した。
江藤は、長州系軍人・官吏の汚職を徹底的に暴き、追求した。長州閥は、江藤を排斥追放しない限り、存続できる術はないと思うまで追い込まれた。
江藤は征韓論の問題で、西郷らと共に下野したので、長州閥は首の皮一枚で繋がった。
明治七年(1874)に、官を辞した江藤は板垣退助らと共に「民撰議院設立建白書」に署名し、自由民権運動に邁進しようとした。
だが、不満分子の佐賀士族の首領に祭り上げられ、明治政府でライバルで、
政敵だった大久保利通が、暴発した佐賀士族を鎮圧すべく、司法と軍事を兼ねて、博多に上陸。海陸の輸送力を総動員し、瞬く間に佐賀全土を掌握。
江藤は捕らえられ、裁判は2日間という短期間で結審し、斬罪梟首という重い罪を言い渡され、江藤の人生は終わった。
江藤新平は、戦国時代の石田三成と同様に、自分がこうだと思ったら、てこでも変えなかった。相手の気持ちを考えなかったと言える。
完全無欠の正義漢、江藤新平は、それで、破れさった。
しかし、江藤の精神は受け継がれ、司法省の権限は強化され、以後、貪官汚吏
のはびこる余地はなくなった。
江藤のおかげで、日本は真の近代国家となった。
正義は勝ったのである。
索引 敗者烈伝 伊藤潤 著
(株)実業之日本社 2016年