スケッチ 大徳寺黄梅院 昨夢軒↓ https://note.com/sakurada_wa/n/n2b82bb35e08b
弘治3年(1557)11月19日は武田信玄(晴信)が北条氏政に嫁いだ長女・黄梅院のため富士浅間神社に安産祈願文を出した日。信玄は病弱な娘の懐妊のたび安産祈願した。信玄自身も父を追放し歯向かった息子を自害させる親兄弟も争う時代。子を想う一人の親でもあったことがわかりホッとします。
天文23年(1554)12月14日は武田信玄の長女・黄梅院が北条氏康の後継・氏政に嫁いだ日。信玄は合計1万人規模で娘を送ったという。夫婦仲は良かったと伝わるが同盟破綻で甲斐に戻され失意のうち27歳で亡くなったのが通説。小田原に留め置かれた新説もありこちらが史実であってほしい。
天文23年(1554)12月14日は武田信玄の長女・黄梅院が北条氏康の後継・氏政に嫁いだ日。武田・北条・今川三氏により婚姻による甲相駿三国同盟が結ばれた。信玄は合計1万人規模で娘を送ったといわれる。夫婦仲は良かったと伝わるが同盟破綻で甲斐に戻され失意のうち27歳で亡くなった。
弘治3年(1557)11月19日は武田晴信(信玄)が長女・黄梅院のため富士浅間神社に安産祈願文を出した日。天文23年(1554)に武田氏・北条氏・今川氏による甲相駿三国同盟のため北条氏康の跡継ぎ氏政に嫁いだ。黄梅院は嫡男・氏直などを産むが晴信は病弱な娘の懐妊のたび安産祈願をした。
天正19年(1591)11月4日は北条氏直が30歳で死去し後北条氏の嫡流が断絶した日。前年の秀吉の小田原攻めで自ら切腹を申し出て将兵の助命を請い降伏。父らは切腹となるが氏直は高野山へ追放後に赦免され大名復帰した直後。死因は疱瘡(天然痘)といわれる。従弟で養子の氏盛が遺領を継いだ。
31日は旧暦にない。天文23年(1554)7月は北条氏康の娘早川殿と今川氏真の婚姻が行われた月。既に武田義信に今川義元の娘嶺松院が嫁いでいた。この年の12月に武田信玄の娘黄梅院が北条氏政に嫁ぐことになる。これで武田・北条・今川の甲相駿三国同盟が成立し三者の後顧の憂いがなくなった。