こんにちは。 む です。 記録と勉強用。

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相国寺

臨済宗相国寺派の大本山。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身。 また、鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭(さんがいたっちゅう) 足利義満が花の御所の隣接地に創建を発願。 その地はかつて行基により創建された出雲寺(現・毘沙門堂。出雲寺は現・上京区毘沙門町にあった)や、法然が住していた賀茂の釈迦堂(現・百万遍知恩寺)が建っていた場所であるが、当時は安聖寺や公家の屋敷が建てられていたのでそれらを移転させている。 至徳3年(1386年)に

    • 大徳寺 仏殿

      大徳寺 仏殿  創建当初の建物は応仁の乱で焼失。  一休宗純によって復興されたが、現在の建物は1665年(寛文5年)、京の豪商・那波常有(なわ じょうゆう)の寄進によって建造されたもの(重要文化財)。  本尊は釈迦如来。

      • 天龍寺

        嵐山や渡月橋、亀山も天龍寺の敷地であった。 この地はその昔、檀林皇后と称された嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開創した禅寺・檀林寺の跡地で、檀林寺が廃絶した後、後嵯峨上皇が仙洞御所を造営し、さらに亀山上皇が仮の御所を営んだ。 その地に足利尊氏を開基とし、夢窓疎石を開山として開かれたのが天龍寺で、その目的は後醍醐天皇の菩提を弔うため暦応2年(1339)に創建された。 造営に際して尊氏や光厳上皇が荘園を寄進したが、なお造営費用には足りず、直義は夢窓と相談の上、元冦以来途絶えていた元

        • 高桐院

          高桐院(こうとういん)は、大徳寺の塔頭のひとつ。 灯台躑躅で赤く染まる茶室が印象的。 開基(創立者)は細川忠興(三斎)、開山(初代住職)は玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)である。 戦国時代に智将として名を馳せ、茶人としては利休七哲の1人として知られる細川忠興(三斎)が父・細川藤孝(幽斎)のために慶長7年(1602年)建立した寺で、玉甫紹琮を開山とする。 玉甫紹琮は幽斎の弟で、三斎のおじにあたる。創建については慶長6年(1601年)頃とされる。 正保2年(1645年)に8

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          黄梅院

          黄梅院(おうばいいん)は、大徳寺の塔頭。 千利休作庭と伝わる苔一面の直中庭が美しい。 永禄5年(1562年)に織田信長が父・信秀の追善供養のため春林宗俶(大徳寺98世)を迎えて創建、黄梅庵と名付けられた。 天正10年(1582年)の本能寺の変により信長が急逝し、その葬儀が羽柴秀吉により大徳寺で盛大に行われた。秀吉は信長の塔所として黄梅庵を改築したが、主君の塔所としては小さすぎるという理由から大徳寺山内に総見院を新たに創建 その後、春林の法嗣の玉仲宗琇(大徳寺112世)

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          興臨院

          興臨院(こうりんいん)は、大徳寺の塔頭。通常は公開されていない。 大永年間(1521年- 1528年)に、能登国の戦国大名・畠山義総が大徳寺86世の小渓紹ふ(「ふ」は「付」の下に「心」、仏智大通禅師)を開山として建立 その後、畠山家が没落するが天正14年(1586年)に加賀百万石の基礎を築いた戦国大名・前田利家により改修が行われ、前田家の菩提寺となり庇護される。 室町時代の方丈建築様式の特徴をみせる入母屋造・檜皮葺の建物。床の間は日本で最初のものであるといわれる。また、

          興臨院

          聚光院

          聚光院(じゅこういん)は、大徳寺の塔頭のひとつ。 寺内は通常は公開されていない。 閑隠席は一見の価値があり、特別公開の際には是非訪れたい。 室町幕府12代将軍・足利義晴に仕えた三好長慶の養子・義継が永禄9年(1566年)に養父の菩提を弔うために笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)を開山として建立。 千利休が開祖・笑嶺和尚に参禅したことから利休の墓をはじめ、三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)歴代の墓所となっている。 重文の茶室 閑隠席(かんいんせき) 利休150回忌の寛保

          聚光院

          龍安寺

          龍安寺(りょうあんじ)は、臨済宗妙心寺派の寺院。妙心寺の境外塔頭 山号は大雲山と号し、本尊は釈迦如来、開基(創建者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承 「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。 もともと衣笠山山麓に位置する龍安寺一帯は、永観元年(984年)に建立された円融天皇の御願寺である円融寺の境内地であった。円融寺は徐々に衰退し、平安時代末には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が同地を山荘とした。 この山荘を細川勝元が譲り受け、宝徳2年(1450年)敷

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          桂春院

          桂春院は妙心寺の塔頭のひとつ。 慶長3年(1598)、織田信長の嫡男信忠の次男である津田秀則によって見性院として創建され、寛永9年(1635)に美濃国(現岐阜県)の豪族石河貞政が建物を完備し、名を桂春院と改めた。 方丈内部の襖絵は狩野山雪の筆。 茶室既白庵(きはくあん)は長浜城から書院とともに移築されたもの。 「侘」「清浄」「思惟」「真如」と名付けられた4つの庭は、国の名勝及び史跡に指定されている。

          桂春院

          龍源院

          龍源院(りょうげんいん)は、大徳寺の塔頭。 大仙院を本庵とする大徳寺北派に対して、南派の本庵 文亀2年(1502年)に東渓宗牧(とうけいそうぼく)を開山として、能登守護の畠山義元、豊後守護の大友義長、周防守護の大内義興らが創建 創建年次については永正元年(1504年)など諸説あり、大徳寺の塔頭の中では最も古い。 方丈南庭は「一枝坦(いっしだん)」 と言い、- 1980年(昭和55年)に当時の住職が作庭した枯山水庭園 方丈北庭「龍吟庭(りょうぎんてい)」 は方丈北側に

          龍源院

          春光院

          春光院(しゅんこういん)は妙心寺の塔頭寺院 豊臣秀吉に仕え、後、松江開府の祖となった堀尾吉晴が、長子堀尾金助を小田原の戦いで失ったので、その菩提を弔うため、天正18年(1590年)に建立 近代日本を代表する禅思想家の久松真一 (西田幾多郎の哲学、鈴木大拙の禅学に影響を受け、東洋哲学、仏教、日本思想を研究) は、戦中・戦後の一時期を春光院で過ごし、当寺院で鈴木大拙と禅や近代哲学について語り合った。 春光院は日本の禅が世界の禅になるために重要な役割を果たした場所のひとつ。

          春光院

          大法院

          大法院(だいほういん)は、妙心寺の塔頭。 松代藩主だった真田信之の菩提所。 1662年(寛文2年)、信之の孫・長姫が信之の遺命によって創建したと伝えられる。 院号は、信之の法名「大法院殿徹岩一洞大居士」に因むもの。 幕末の松代藩士で攘夷派に暗殺された佐久間象山の墓がある。 方丈の襖絵は江戸時代中期の絵師・土方稲領が描いた「叭叭鳥図」(ははちょうず)。  双ヶ岡を借景とした露地庭園が美しい。 露地とは、茶室に付随する庭園のこと。 仏教でいうところの「清浄世界」を表している。

          大法院

          龍泉庵

          龍泉庵(りょうせんあん)は、花園の妙心寺の境内の南門付近にある妙心寺の塔頭寺院。 塔頭の中でも寺格の高い妙心寺※四派四本庵の一つ 妙心寺の創建当時から立てられ、塔頭の方丈としては最大級の規模を持つ。 室町時代中期の1481年、臨済宗の高僧・景川宗隆(けいせんそうりゅう)により武将の細川政元(ほそかわまさもと)を開基として創建された。 「禅は景川」  「後御堂法坂 雪霜十六年(うしろみどうほうさか ゆきしもじゅうろくねん)」と、開祖 景川禅師の修行ぶりが伝えられている法

          龍泉庵

          大雄院

          大雄院は妙心寺の塔頭寺院 尾張藩家老・石河光忠が父の菩提を弔うために慶長8年(1603)に建立した妙心寺の塔頭寺院。 客殿には、江戸末期から明治初期の漆芸家・蒔絵師の柴田是真が描いた襖絵72面が残る。円山応挙の門人・土岐済美(とき ざいみ)筆の山水の襖絵も残る。 庭園は苔の枯山水庭園と池が連続してあり、広々と感じられる。 蓮華寺灯籠も見られる。

          大雄院

          瑞峯院

          砂の波紋と竜の背中のような石組が印象的な枯山水庭園 天文4年(1535)に、キリシタン大名として知られる大友宗麟が大友家の菩提寺として建立。 創建当時から残る客殿と表門、唐門は国の重要文化財 方丈周りにある「独坐庭」と「閑眠庭」はどちらも昭和36年(1961)に重森三玲が開祖400年遠忌を記念して作庭。 「閑眠庭」は縦4個、横3個の石が配され、石組みが十字になっていることから「十字架の庭」とも呼ばれている。

          瑞峯院

          大心院

          大心院は妙心寺の塔頭寺院。 本堂南庭の「切石の庭」は中央に花壇が配置され、珍しい。 ツツジが咲く坪庭も侘びた趣がある。 明応元年(1492)に管領細川政元が、景川宗隆を開山として創建。天正年間(1573~1592)に細川幽斎が現在地に移転させた。 書院前の「阿吽庭」は中根金作の作庭。東西に長い長方形の地割をもつ枯山水庭園で、白砂、奇岩、苔で龍が天に昇ろうとする姿を表している。 宿坊としても利用できる。

          大心院