天正3年(1575)4月5日は家康が武田勝頼に内通した大岡(大賀)弥四郎を処刑した日。岡崎で家康の嫡男・信康に仕えていたが武田軍を引き入れる計画が露見し鋸挽きの刑に処された。翌月起きるのが長篠設楽原合戦と考える家康が信玄に続き勝頼からも相当な圧力を受けていたことが想像できますね。
天文24年(1555)10月1日は厳島の戦いで毛利元就が陶晴賢を破った日。逸話や通説では大内氏の実権を握った晴賢に元就は偽情報や偽装内通など事前の謀略をしかけた。晴賢は内通を疑った家臣を殺害し大軍が身動きとりづらい宮島におびき出される。暴風雨中から夜明けに奇襲を受け晴賢は自刃。
慶長5年(1600)7月29日は石田三成が佐和山城を出陣した日。2日後家康の重臣鳥居元忠が籠る伏見城は半月掛かりで落城。各地で東西両軍が勝ち負けを繰り返し9月15日の関ヶ原の戦いを迎える。見える結果に至るまでどんな途中経過があったか。何事もその瞬間だけで決まるものではないですね。