慶長7年(1602)2月1日は徳川四天王の井伊直政が彦根城築城の途中に佐和山城で死去した日。遠江国井伊谷の出身で家康が遠江に進出してくると小姓として取り立てられた。武田の赤備えを支えた遺臣を配属され部隊軍装を引継ぎ直政は「井伊の赤鬼」と称されるが加えて外交手腕も高く評価された。
慶長5年(1600)9月17日は佐和山城の戦いがあった日。15日の関ヶ原の戦いで西軍から寝返った諸将を中心に石田三成の父兄が籠る城を攻めた。寝返り直後で少しでも家康の心証をよくする必要があったか。周りにつられ寝返った者達は減封改易もあった。意志ある選択かがその後を左右するものか。
慶長5年(1600)9月17日は東軍が石田三成の父兄らが籠る佐和山城を攻めた日。15日の関ヶ原合戦に敗れた三成は伊吹山へ逃れて帰城できてはいなかった。小早川秀秋や脇坂安治、小川祐忠ら西軍から寝返った諸将を中心に攻め寄せた。圧倒的な兵力差に加えて内通者が出たため翌18日に落城した。
慶長5年(1600)7月29日は石田三成が佐和山城を出陣した日。2日後家康の重臣鳥居元忠が籠る伏見城は半月掛かりで落城。各地で東西両軍が勝ち負けを繰り返し9月15日の関ヶ原の戦いを迎える。見える結果に至るまでどんな途中経過があったか。何事もその瞬間だけで決まるものではないですね。