戦国時代カレンダー 今日は何の日? 【6月21日~27日】
戦国時代の今日の日付にはどんなことがあったのか? 1週間ごとにお伝えします。ぜひ「ああ、今日はそんなことがあった日なんだな」と思いを馳せてください。毎週日曜日に更新する予定です。
なお、日付はすべて旧暦ですので、現在とは約1ヵ月のズレがあります。
6月21日 羽柴秀吉、佐和山城に到着
天正12年(1584)6月21日(旧暦)、羽柴秀吉(はしばひでよし)は近江(現、滋賀県)佐和山(さわやま)城に到着。小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いで、織田信雄(おだのぶかつ)・徳川家康(とくがわいえやす)勢と対峙(たいじ)していましたが、軍勢を尾張(現、愛知県西部)に残し、いったん大坂城に戻る途中でした。同日、秀吉は毛利広盛(もうりひろもり)の忠節を賞し、新知を加えた知行をあてがっています。
6月22日 将軍足利義昭、権大納言・従三位に
永禄12年(1569)6月22日(旧暦)、征夷大将軍足利義昭(あしかがよしあき)が、権大納言(ごんだいなごん)・従三位(じゅさんみ)に叙(じょ)せられました。織田信長の支援により前年に15代将軍に就任し、烏丸中御門第(からすまなかみかどてい)で政務を執る義昭は、室町幕府を復興させますが、やがて恣意(しい)的な政治判断などが信長との対立を招くことになります。
6月23日 島津貴久没
元亀2年(1571)6月23日(旧暦)、島津貴久(しまづたかひさ)没。島津氏中興の祖・忠良(ただよし)の嫡男で、島津4兄弟の父親として知られます。旧領三州(薩摩〈現、鹿児島県西部〉、大隅〈現、鹿児島県東部〉、日向〈現、宮崎県〉)の回復を悲願に薩摩を統一、薩摩守護となりました。貴久の悲願は4人の息子らが実現することになります。
6月24日 加藤清正没
慶長16年(1611)6月24日(旧暦)、加藤清正(かとうきよまさ)没。6月24日は清正の誕生日でもありました。豊臣秀吉子飼いの武将で、朝鮮出兵での活躍で知られます。築城の名手で、高い土木技術を河川改修にも活かし、肥後(現、熊本県)の生産力を高めて領民から慕われました。最後まで豊臣秀頼(ひでより)への強い忠誠心を抱き続けていたとされます。
6月25日 信長、甲越和親の件で直江景綱に通知
永禄11年(1568)6月25日(旧暦)、織田信長は上杉(うえすぎ)家の直江景綱(なおえかげつな)に通知。武田信玄(たけだしんげん)より甲越和親の斡旋(あっせん)をたびたび頼まれているが、上杉家の方針もあるので動きを控えていること、輝虎(てるとら、謙信)の考え次第では斡旋する、と伝えました。信玄の依頼は、甲相駿(こうそうすん)同盟破棄と連動するものです。
6月26日 毛利輝元、清水宗治の息子に感状付与
天正10年(1582)6月26日(旧暦)、毛利輝元(もうりてるもと)は清水宗治(しみずむねはる)の息子・源三郎(げんざぶろう)に感状を付与。備中高松(びっちゅうたかまつ)城で自刃した、父親の忠節に報いました。源三郎はその後、小早川隆景(こばやかわたかかげ)に仕え、景の字を与えられて景治(かげはる)と名乗ります。関ヶ原合戦後には、毛利本家の家臣となりました。
6月27日 清須会議、開催
天正10年(1582)6月27日(旧暦)、清須(きよす)会議開催。信長亡き後の織田家継嗣と領地配分を決めるものでした。会議は明智光秀(あけちみつひで)を討った羽柴秀吉がリードし、後継は秀吉の推す信長嫡孫(ちゃくそん)の三法師(さんぽうし、秀信)に決定。秀吉は重臣筆頭となる一方、柴田勝家(しばたかついえ)らとの対立を深めます。
【6月の戦国武将生没日】
6月2日・織田信長没
6月2日・織田信忠没
6月2日・森成利(蘭丸)没
6月2日・村井貞勝没
6月2日・斎藤利治没
6月2日・三村元親没
6月3日・鍋島直茂没
6月4日・真田昌幸没
6月4日・清水宗治没
6月4日・伊達成実没
6月5日・島津家久没
6月8日・安藤守就没
6月10日・斎藤義龍誕生
6月12日・小早川隆景没
6月13日・明智光秀没
6月13日・溝尾茂朝没 異説あり
6月13日・松田政近没
6月13日・竹中半兵衛没
6月14日・毛利元就没
6月14日・明智秀満没
6月16日・阿閉貞征没
6月17日・斎藤利三没
6月17日・堀尾吉晴没
6月23日・島津貴久没
6月24日・加藤清正誕生
6月24日・加藤清正没
6月24日・可児才蔵没
6月24日・温井景隆没
6月28日・真柄直隆没
6月28日・真柄直澄没
6月28日・遠藤直経没