湖北の風景21 佐和山城址
※秋の大気不安定な日、お弁当を持って佐和山(さわやま/標高232M)へ登りました。二人の息子達(7・3歳)をお供に。
ベビィがどうしてもついて行くと言い張ったので、彼でも行けそうな標高を攻めたという所。
「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」
佐和山(滋賀県彦根市)が湖北かどうかは難しいところではありますが、
(現在の行政的には湖東の端?)
中世より江北・江南の覇権を争う境目の山城が築かれた場所であり、
豊臣政権下で江北出身の武将・石田三成が1590年頃に佐和山に入城し、北近江4郡を与えられました。
この際、過ぎたる物と狂歌で揶揄されるほど豪華な天守(五層とも三層とも)を備えた城に大改修されたと言われます。
実際には板張りの質素なつくりで金銀の蓄えもなかったとも言われ、領民に慕われた彼の堅実な人柄と、時に誤解を生みがちな不器用さが垣間見えるようです。
判官贔屓上等。いち領民として、今回ギリギリ湖北でお許し願いたい。(ここ以南は湖東の風景シリーズとしましょうか)
・佐和山城址(さわやまじょうあと)
鎌倉時代、近江守護佐々木氏の築いた砦が始まりとされる。
その後六角氏、浅井氏、丹羽氏など城主を変え、豊臣政権下の城となり、1591~5年頃に城主に任ぜられた石田三成によって3~5層の天主がそびえ立つ瓦葺きの近世城郭に改修されたたという。
関ヶ原合戦後は、徳川四天王の一人、井伊直政が入城。
領民の先代の城主への思慕を絶ちきるため、彦根城建築が計画されるも、直政は関ヶ原での負傷が原因で城の完成を見ることなく世を去る。
慶長11年(1606年)彦根城完成により廃城。この際に佐和山城は徹底的に破壊されている。
以上の経緯を知ると「武士の夢」という看板がエモい。
・龍潭寺(りょうたんじ)
彦根市にある臨済宗妙心寺派の寺院。本尊は釈迦如来。「だるま寺」や「庭の寺」とも呼ばれる。
遠州の井伊谷を本貫地とする井伊家。同名の寺が井伊谷(浜松市)に存在する。
関ヶ原で東軍の勝利後、井伊直政が佐和山城に転封になるにあたり遠州龍潭寺の僧侶昊天を招いて分寺して建立された。
レトロな墓と石田三成銅像も見逃せない。
・井伊神社(いいじんじゃ)
主祭神 稜威鞆安彦命 稜威直政彦命 稜威直孝彦命
天保13年(1842年)井伊直亮が、井伊家の始祖、共保(ともやす)公の750回忌に際し、遠州の井伊谷八幡宮から井伊大明神を分霊して奉斎したのが始まり。
社殿内部は全て漆塗で極彩色の彫刻や天井画が描かれているが、社殿保護のため倉庫のような黒ずんだ屋根で覆われており、興醒め・・・。
佐和山は龍譚寺山門からハイキングコースが整備されており、今回はそこから登りました。
急峻で細い道もありますが、普段山に登らない方でも、三歳のベビィでもなんとか登れる難易度かと思います。
ただ少し怖ろしいのが、登山道入り口の墓周辺にニホンザルが跋扈していたこと。
この辺りでは珍しいものではありませんが、生身で歩いてて出くわすとちょっとビックリするものです。
わが子を危険に晒すまいと熊鈴を振り回しながら追い払いましたが、ちょっと逃げては様子を伺う猿に舐められてる感じがして、かなり人慣れしているのだと思いました。
注意書きの通り、食べ物を見せない・目を合わさないのが正解のようです。
山頂には「武士の夢 佐和山」の看板。
城の命運を思うと兵どもが夢の跡。(霊感はない)
お供達とお弁当を食べましたが、不穏な黒い雲。途中でびゅうっと風が強くなり、飛び立つカラスの群れ。いつのまにか消える登山客。
雨が降り出しそうだったので急ぎ下山しました。
泣きべそをかくベビィに木の枝で杖を作り、「きみは強い!」とおだてながら・・・
下山後は天気が持ち直したので隣の井伊神社も見てきました。
井伊家の栄華が偲ばれます。
山頂からは彦根城を見下ろせますし、伊吹山も見えます。
湖北側を見ると琵琶湖沿いに奥琵琶湖まで見渡せる絶好のロケーションです。
歴史の覇者も同じ景色を見たのだろうかと思うと胸に迫るものがありますね。
城としては(ほとんどの山城がそうですが)廃城後は破壊されているので、素人にはあまりめぼしい遺構が確認できませんでした。(勝手に発掘するな)
国道8号(佐和山遊園側)から登るルートもあり、次回はそちらも攻めてみたいです。
そしてしっとりと苔むした林道に、墓地。
レトロなタイプの墓。無縁仏。首のない石仏。墓の墓場。
あの世とこの世の境のような。サスペンスの舞台のような。
墓好きには大変エモい所でありました。
紅葉にはまだ少し早い時期でありましたが、素晴らしい秋の散策になりました。
※以上、長くなりましたがありがとうございます。
よく見たら、ヘッダーに亡霊が映り込んでいました。ヒエッ。