今回は少し硬くいかせてもらいます〜。かなりボリューミーな内容となっておりまして、あなたにそれなりの気づきを与えられれば幸いです。 さて道元禅師がおすすめになる「坐禅」。 我々は生まれながらにして仏であるにも関わらず、なぜ修行をしなければならないのか? このような疑問を当時の若かりし道元禅師はいだきました。 すごいですよね、、今の若者の中にそんな人は一人もいません。笑 その後中国へ赴き如浄禅師と出会い、様々な経験を経て、ついには正伝の仏法を日本にお持ち帰りになられます。
いきなりですが「本当の優しさ」ってなんだとおもいます? まぁそれを考える意義はなんなの?とか、何か得することがあるの?とかそういう探り合いは一旦抜きにして・・・ この「本当の優しさ」に関しては、ロックバンド「くるり」が手がける「ロックンロール」という曲の中にも出て来るワンフレーズなのですが、学生の頃からよく聴いてて、本当の優しさってなんだろうな〜ってそれ以来、かれこれ思うようになったんですね。 そこで今回は「本当の優しさ」についてです。 今回もまたかなりぶっ飛んだこと
標題に関して、おそらくこれを考えない人はいないですよね。これまで誰もが一度は考えてきたことのある問題のはずです。 実に恐ろしい問題ですね、、 もちろん今この記事を読んでるあなただけでなく、これまでの人間の歴史において最も重要な問題であり、本当に多く考えられてきた問題に違いないはずです。 それをこんなどこぞの馬の骨ともしらない変なやつがいきなり語り出す。笑 恐ろしいですね。 でも語らせてくださいよ〜。 私はこう見えて寺の生まれで一応修行も数年してきた経緯があります。
道元禅師がおしるしになられて「普勧坐禅儀」という書物の中に、 「豈に神通修証(じんずうしゅしょう)の能く知る所とせんや。」 という一文があります。 いきなりですが、これはどういうことでしょうか? まず「神通修証」は思量が生み出す事という意味で使われます。 神頼みをして結果を求める。 平凡な人間では及ばないような力を求める。 これは古来からの人間の特性でもありますね。 そしてそれは修行をすることで必ず得ることができ、それこそがあたかも悟りであるといった感覚になっ
今日、とある雑誌でこんな昔の話が紹介されていました。 昔は徴兵制度がありました。お国の命令を受けたものは本人の意思とは関係なく参加し、そして務めを果たさなけばならない。もしそれに応じなかった場合、その責任は家族にも及び、その者たちは家族総出で、村から出て行かなければいけない。 非常に重罪だったわけですね。 とある時代、とある家族の話。長男がその務めから逃げ、またその責任をとらされた次男も逃げてしまう。その家族はもう二度と故郷に戻ることはできなかったという話です。 こん
かつて「棒使いの名人」が仏祖の中にいました。 「徳山の棒、臨済の喝」とは有名な言葉ですが、徳山宣鑑(とくざんせんがん780年 - 865年)という人間がその「棒」を使って誰でも彼でも殴りつけて人を導いていったという話があるんですね。 今回はその徳山宣鑑禅師にまつわるお話をしていきます。 ちなみに私はドラゴンクエストが大好きです。ドラクエ発祥の国「日本」、その日本人として生まれて来れたことを誇りに思います。 今回はその「ドラクエ」にも関連する話です。この話を読み終えた頃
かつて、馬祖道一(ばそどういつ)禅師という非常に有名な中国の禅僧がおりました。 その馬祖道一禅師の法嗣に帰宗智常(きすちじょう)禅師という方がいたんですね。 その帰宗智常禅師に李渤刺史(りぼつしし)という、当時師のもとで修行をしていたものがある質問をします。 三乗十二分教は問わず、如何なるか是れ祖師西来意。 この「三乗十二分教(さんじょうじゅうにぶんきょう)」というのは、仏教の経典を色々な種類に分類したもので、お釈迦様が説いたお説教を「詩」や「逸話」などに十二通りに分
今日、一般の人とこんなことを話しました。 「〇〇さん家ってお寺ですよね?犬とか猫とか飼っているんです?」 「いいえ。」 「なんかお寺っていうと、猫とか犬とかそういう何かしらの動物を飼ってそうなイメージがあります!だって、ほら!福井にある「御誕生寺」みたいに、猫寺で有名なお寺もあるじゃないですか!」 「確かに。でもウチは住職(父)が決して許してくれなかったんです。そういう動物を飼うということを。お釈迦さまがかつて言ったことで「いきとしいける動物は全て同じ命の重さである」
趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん)禅師(778年 - 897年)は中国唐代の僧で、中国禅宗における巨人です。 「庭前の栢樹子」を例に見ても、その道に通ずる方であれば、この趙州禅師の名はさまざまな場面で目にするはずです。 今回はそんな趙州禅師とある二人の修行僧が残した逸話をご紹介し、「真実」とは何なのかを紐解いていきたいと思います。 高齢で行脚修行に出た趙州禅師趙州従諗という禅僧がかつて唐時代の中国にいました。 この趙州禅師というのは六十歳を過ぎた、高齢を迎えてから修行
という、気持ちにして見せましょう、この3分で!笑 いきなりですが、我々は何か物を判断する時は必ず自分の「物差し」で判断をします。「犬のうんこはキモい」とか「おっさんはくさい」とか。 そういった自分の「物差し」というのを人間であれば必ず誰しもが持っているわけです。 そのようなものがつきまとうのは生まれ育ってからの習い性であり、ある意味仕方のないことでもあります。 ただこの「物差し」というのは自分にとって都合の良いものだけを寄せ集めて作られております。 つまりは自分基準
先日縫い物をする機会があって、「針」を使いました。 その針を誤って自分の指に刺してしまったんですね。 今回はその時の話です。 いや〜あの時は痛かったですね。 もう思いっきり、やってしまいました。針とは凶器です。 指に刺したくらいでどうってことないではないか・・・。 この記事をお読みの、あなたはきっとそう思われるでしょう。 しかしこの「針に刺した痛み」は誰かと比較できない「宇宙一杯の痛み」であり、我々の真実の「命」なのです。 おっと、いきなり話が飛躍してしまいましたね
今回は少しだけ長めに書いてみました! いや〜仏教の勉強は本当に面白いですね。 秋の爽やかな朝。いつもより早く起きて、コーヒーをいれ、そして好きな仏教の勉強をする。疲れたら散歩をして、ご飯を食べる。昼寝して、また好きなことをする。 と、これは秋がどんなに素晴らしい季節かを伝えるための記事ではありません!! そんな今日の気持ちいい秋の朝に伴う、仏教で得た学びの話です! さて曹洞宗の開祖、道元禅師が書いた「普勧坐禅儀」という書物をご存知でしょうか? これはあまねく様々な人
人が守るべきものってなんだろう。 家族?財産?名誉? ある日の休日、とある洋画を見ていた。 中世の時代をテーマにしたその作中に登場する男性(主人公ではない)が、国のために空軍に入隊するというシーンがある。 これはよくある戦争映画のワンシーンだけど、国を守るためにその青年は大好きな彼女とも別れ、また大好きな写真という趣味をも投げ打って、国のために入隊する決意をする。 だけど国ってなんだろうなー、祖国ってなんだろうなー、とこのとき改めて思わされた。 空から地球を見たとき
いきなりですが我々の生きる「本来の命」には何も引っ掛かりがありません。無条件で「呼吸」をし、無条件で「消化」する。円通であり、「円」そのものであると。 なので「道本円通」という。 その「道本円通」とは、 「本来この方、今まで長い事変わらずに、少しも変化なく、足し増しもない。我々の生きる世界というものは常に円通である。」 ということなんですね。 かの有名な松尾芭蕉が次のような詩をうたっております。 閑さや岩にしみ入る蝉の声(しずかさや いわにしみいる せみのこえ)。
いきなりですが、宝物って、なんだと思います? 僕の場合、旅先でふと見かけたお店、そこに入って注文したナポリタンの美味しさ。 こういった感動体験を「宝物」と称しています。 皆さんはどうですか? そこでいうと自分から見つけようとして見つかったものは果たして「宝物」と呼べるのでしょうか? 感動するかという点で言うと、おそらくしないですね。 義務感に駆られてしまうので。 私の場合、この例が他にもあって、私は大のゲーム好き人間なのですが、このゲームをやれば必ず人生に必要な
どうやらこの世界に「自我」はないらしい。 この自分だと思っているもの。理論上1秒後には姿形を変えるのはわかる。細胞は生まれ変わっているから。 これを正確に捉えようとすると果たしてこの自分がなんなのかわからなくなる。 という意味でいうと、自我ってないの?と思う。 お釈迦さまの毎回の説法を楽しみに、多くの大衆が今回も固唾をのんで待っていた。 しかしお釈迦さまは須弥壇に登って何も言わずに降りてきてしまった。 それを納得できたものはいなかった。 お釈迦さまが登って降りてくるだけ。