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お茶漬けとフランス料理の違い。からの人は生まれながらに救われている話?!

今回は少しだけ長めに書いてみました!

いや〜仏教の勉強は本当に面白いですね。
秋の爽やかな朝。いつもより早く起きて、コーヒーをいれ、そして好きな仏教の勉強をする。疲れたら散歩をして、ご飯を食べる。昼寝して、また好きなことをする。

と、これは秋がどんなに素晴らしい季節かを伝えるための記事ではありません!!

そんな今日の気持ちいい秋の朝に伴う、仏教で得た学びの話です!

さて曹洞宗の開祖、道元禅師が書いた「普勧坐禅儀」という書物をご存知でしょうか?

これはあまねく様々な人に坐禅を勧めるといった内容が記されているものですが、そもそも「坐禅」とは何か、なぜ我々は坐禅をしなければいけないのか?という話で、その内容を今回は簡単にまとめてみました。

お釈迦さまは言われました「諸法無我」。

これは「あらゆる事物は常に変化している為、形を変えないものなどどこにもない」ということですね。

そこに際してこの世界には「俺」という「我」はどこにも存在しないという教えです。

今「俺だ」と思っているこの「俺」は、しかしそれは理屈上1秒後には変化していなければならないはず。
それを果たして本当に「俺」と呼ぶべきなのかという話。

何秒後だろうが、毎回それは「俺」に違いないだろう、と思ったとしても、そもそも自我とはこれだ!という決定打がないということなんですね。

なぜなら全ては毎秒変化しており、自我に関してもこの「俺」に関してもこれ!という定義ができないからです。定義できないというのは具体的にいうと、正体を捉えることができないということですね。(毎秒形を変えるから)

形が変わらないものであれば、それには確かに名前はつけられるかもしれないし、定義づけられるかもしれない。
しかしそんな形を変えないものなどこの世界にどこにもない。この世界のあらゆるものは常に変化を続け、定義に収まるところを知らない。

しかし一方で形を変えないものが1つだけある。それが冒頭でお伝えした「俺」という自我、つまり人間の概念です。

お釈迦さまはこの世のあらゆるものは変化していると言いました。我々人間の体に至っても、毎秒確実に歳をとっているわけです。

またその「変化すること」それが真実のあり方でもあるわけです。逆に言えば変化しないものが仮にあるとしたらそれは実存しているものではなく、空想の、あるいはまやかしの存在だということでもあるわけですね。

そこに際してのこの「自我意識」、あるいは概念というのは一向に変わりません。常にそこに延々と止まっている。だからこの「俺」は紛れもなく俺だ!と言えてしまうというわけです。

しかしそう言えてしまうのであれば、むしろそれはまやかしなのです。

自我意識が存在しない?!

このことを理解する上で、例としてもう一つ分かりやすいのは、我々の「胃袋」ですね。

例えば、

「なんだ今日のご飯もお茶漬けか、味気ないなぁ。」

あなたも私ももしかしたら今日言うセリフかもしれませんね。

毎日味気ないご飯が出されると、このように愚痴をはきたくなるのが我々です。

しかし味気ない食事だとしても「喉元」を過ぎたならば胃袋は「無条件」で、「生き詰まりなし」に、消化をしてくれます。

高級なフランス料理だとしてもそうです。

どんなものが喉元過ぎて入ってきても、分け隔てなくちゃんと消化をしてくれる。

我々が寝ている時なんかもそうですね。

そもそも自分が寝ている時は「自我」がありませんよね?

その「自我」が寝ている時だろうが、そもそもあろうがなかろうが、この体は休まずに「呼吸」をし続けてくれています。

つまり我々人間は「自我」で生きているわけではないのです。

「自我」で呼吸をしているわけではない。

「自我」で消化をしているわけでもない。

「自我」というのは生命活動にとって、命と何の関係も持たないんですね。単なる認識に過ぎないのです。

その認識、仮そめのまやかしの存在である自我において、人と比較したり、人に注意をされたり、争いや喧嘩をしたりするわけです。

我々を常に苦しませているのはその存在もしない「自我」だったというわけです。

なんか面白いですね。人間て笑。
今となっては生きていくためにはこの自我意識、人間社会の中で生き延びるほかないわけですから、そうわかっていたとしても耐えるしかありません。悔しいですが。。

ただそれでもきちんと抑えておかないといけないですね。「生き詰まり」を起こさせるのはこのまやかしの存在である概念で、自我によって人々はこれまでもきっとこれからもいきつまり、苦しむんですね。

しかし繰り返しになりますがその「生き詰まり」とは頭の中だけの話で、現代人に多い「ストレス」の根本にもなっているものです。

我々のこの本来の「在り方」、つまり我々の生きている「事実」は全て本来「円通」であります。

決してそこに生き詰まりがあったり、偏りがあるという事は一切あり得ず、「完全」であり、常にひらけた世界です。

ですからお釈迦さまをはじめ、道元禅師も「普勧坐禅儀」の中で

「争か修証を仮らん。」

とおっしゃるんですね。

つまり今から修行を一生懸命頑張って、その結果として「理想的な人物になろう」という事は、おかしなことだと道元禅師は言われるんですね。

そんなことはナンセンスであるし、なんとしても悟りをひらこう等という考えじたい、実に滑稽なことであるというのです。

何故ならすべては「円通」だからですね。悟るべきものなどそもそも何もなく、もしあったとしたならそれは個人の単なる願望で、それは本当の悟りではないからです。

ですから、

「修行」をして「悟る」のではなく、「悟り」を実践する。

これが道元禅師が強くおっしゃることで、道元禅師のおすすめになる「坐禅」なんですね。

この坐禅を行い、今すぐにでも完全無欠のひらけた世界、そこを生きてくださいよと。

それこそまさに「悟り」であると。

ですから坐禅は「仏の行」と呼ばれ、中には聞いたことがある人もいるかもしれませんが、

一寸坐れば一寸の仏

と言われるのです。

この世界は常に悟りの世界であるから、その世界に自分をひたす。ざるで悟りを得ようとするのではなく、ざるを元の仏の水に浸せと。

「坐禅」をしていると誰でも彼でも足が痛くなってくる。これこそ円通です。いきつまりがない、真実むき出しの状態です。世界のどこを探してもこの坐禅を組んで足が痛くならない人物はいない。

そんな命を我々は生ている。坐禅こそが真実の命であるわけです。

一般的に「坐禅」と言うと、「転迷開悟」の手段として用いられます。

人は迷いを転じて悟りを開くというのが坐禅の目的であり手段のような感じがしているわけです。

迷いを打破するための悟りであると。

しかしそもそもこの世界に迷いなどない。

そのことに気づいていた道元禅師は「坐禅」を「悟り」を得るための手段として用いていないんですね。

「坐禅」こそが「悟り」なのです。

ですからこの「坐禅」は仏行と呼ばれるんですね。「真実」そのものだからです。

我々人間がやらなくちゃいけないこと、それは自我に振り回されることではありません。

本来の命を全うすること、カラスや鳩、猫が生まれて死んでいくように、我々もこの世界を真実通りに生きること。それが我々人間の本当の目的であり、役割であります。
そしてそれが「坐禅」であると。

したがって、『普勧坐禅儀』もそういう「転迷開悟」に関する話ではありません。

「坐禅」をして「悟る」だとか、「坐禅」をして迷いを打ち消すという「坐禅」ではないんですね。

何故なら我々は平等に分け隔てなく生き詰まりや偏りなしの「本来の命」、そういう「世界」を生きているからです。

道元禅師は生き詰まりのない「命」を皆さんは生きているのだと、生まれながらに救われているのだと、それをお伝えになるためにこの『普勧坐禅儀』を著したわけです。

結論:絶対毎日フランス料理がいい

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