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「悟りました」ではなく、「悟っていた」です。

道元禅師がおしるしになられて「普勧坐禅儀」という書物の中に、

「豈に神通修証(じんずうしゅしょう)の能く知る所とせんや。」

という一文があります。

いきなりですが、これはどういうことでしょうか?

まず「神通修証」は思量が生み出す事という意味で使われます。

神頼みをして結果を求める。

平凡な人間では及ばないような力を求める。

これは古来からの人間の特性でもありますね。

そしてそれは修行をすることで必ず得ることができ、それこそがあたかも悟りであるといった感覚になってしまう。

これは人間の性質であります。

修行と悟りを分けてですね、修行をしたから「神」にも及ぶ力が備わったと勘違いをし、その結果も得られると思ってしまう。

しかし「仏道」には手応えがありません。

反応がない。

これが仏法の基本であります。

修行したから徐々に、寒暖計のように「パラメータのようなもの」が上がっていってですね、反応が出てくるというのなら非常に分かりやすいのでしょう。我々がよく想像する「悟り」はこのようなものです。笑

しかしそれは我々の脳みそで考えた「思量」であります。

本来、「悟り」と「修行」というのは二つに分かれるのではなく、一つです。

それが大自然の在り方ですね。

ましてや、その「修行」をしたから高尚になれるだとか、「神通力」が備わるなどということがあるはずもありません。

それは人間の「思量」の範囲なのです。

実物の世界、大自然の世界には修行をしたから、悟りを得られるといった、ここでいうところの「反応」がまるでありません。

例えばもし我々が生きている最中、呼吸に「反応」があったらこれは命の危ない時で、危篤の状態でありますよね?

物を食べて胃袋に何か「反応」があったなんて言ったらこれは胃袋の調子が悪い時である。

本来の生命の実物は「無反応」でありますね。

「反応」があるというのはそれは危険な状態であります。

人間の「頭の世界」にだけ反応があるんですね。

それは所詮、体の一部分「脳みその世界」の話であります。

修行したならば少しは「反応」があってもよさそうなもんだと思い込んでしまうが、本来の悟りには「反応」がない。無反応。

結論:「悟り」がなかった!ではなく、この普段の生活こそが「悟り」?


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