本当の人生は「パチンコ」じゃない。
今日、とある雑誌でこんな昔の話が紹介されていました。
昔は徴兵制度がありました。お国の命令を受けたものは本人の意思とは関係なく参加し、そして務めを果たさなけばならない。もしそれに応じなかった場合、その責任は家族にも及び、その者たちは家族総出で、村から出て行かなければいけない。
非常に重罪だったわけですね。
とある時代、とある家族の話。長男がその務めから逃げ、またその責任をとらされた次男も逃げてしまう。その家族はもう二度と故郷に戻ることはできなかったという話です。
こんなことが昔は当たり前のようにあったんですね。
しかしそこには妹がいて、その妹が女優として日本全国に名を馳せるほどの有名人になった。その家族はあえなく逆転勝利したのだ。
実際の過去の話をこのように取り上げたコラムを今日、目にして「おや?」と感じたんですね。
昔はそういう時代だったというのは、我々若いものも、これからの人間も決して忘れてはいけない大切なことで、このようなどうすることもできない無慈悲な現実が実際にあったということは日本国民であれば誰しも念頭に置いておくべきです。
そういった過去の犠牲の上、我々の今の生活が成り立っているわけですから。
しかしそれはそれとして、我々の本来の命というのは「逃げ」もなければ「逆転勝利」もないわけですね。
この命においてそのようなことは決してなく、当たり外れのない命を本来いただいていて、その土壌の上で我々はこうして生きているわけです。
確かに人生となると確かに当たり外れがあって、場合によっては勝ち負けがあるのかもしれない。
あいつは社長なのに俺はヒラだとかですね。あいつは金持ちの妻子持ちなのに、俺には妻さえいない。
人生では誰もが概念によってがんじがらめに縛られ、他者と比較し、苦しんでいる。概念の上でどうにかこうにか旗を上げようと必死にもがいている。
しかし先ほども言ったように本来我々が生きている土壌はそんな人間の価値観や概念、評価とは関係ないところで蠢いております。
概念や価値観とは関係なく、食ったものは平気で消化するし、寝ている間であっても平気で呼吸をする。足を組めばたまらなく痛い。
きっと例外なく誰もがそうであるはずです。
我々はそういう決して当たり外れのない命をいただいていて、そういう土壌のもと生きているということを忘れてはいけないと思うんですね。
坐禅に生きることはそんな本来の我々の在り方に目を向けること、いわば人生に背を向ける生き方です。しかしそれは本来の命のあり方です。
だから達磨様は壁に向かって(人生に背を向けて)坐禅をし続けたわけですね。
これがかの有名な「面壁九年」という言葉です。
足を組めば痛くなることには当たり外れがありません。それはもしかしたら歯応えのない生き方と言えるのかもしれない。
人生にはやっぱり悲劇もあって喜劇もある方がいい!
パチンコに当たって楽しい!有名人になれて嬉しい!
せっかくの人生なのだから目一杯楽しもう!
これは当たり前に誰もが思うことです。しかしその正体は概念です。
そのような生き方だと、そうなれなかった時まるで自分の人生が失敗に終わったかのように感じられてきます。
最後に死ぬ時、果たしてこれでよかったと思えるでしょうか?
自分が自分を自分する。我々はそれだけに目をむけ生きていくことはできないでしょうか?
誰かと比較することのない。にもかかわらず最高に喜びに満ちた人生を。
あなたはあなたしか生きられない。そのあなたをまっとうする。誰しもがそういう人生を歩めれば、一人として例外なく、また後悔なく人生を終えられるはずです。
我々の本当の命や本来の人生は当たり外れがありません。
そして当たり外れがないということは誰もがそこに寄りかかることができるわけです。誰もが常に絶対安心の世界に生きているということなんです。
誰しもが生まれてきて、坐禅だけを行う。これだけで最高に喜びに満ちた人生となるわけですね。
結論:パチンコは最高。
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