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まさか、あの「ひのきのぼう」が真実への道だった?!

かつて「棒使いの名人」が仏祖の中にいました。

「徳山の棒、臨済の喝」とは有名な言葉ですが、徳山宣鑑(とくざんせんがん780年 - 865年)という人間がその「棒」を使って誰でも彼でも殴りつけて人を導いていったという話があるんですね。

今回はその徳山宣鑑禅師にまつわるお話をしていきます。

ちなみに私はドラゴンクエストが大好きです。ドラクエ発祥の国「日本」、その日本人として生まれて来れたことを誇りに思います。

今回はその「ドラクエ」にも関連する話です。この話を読み終えた頃にはあなたはきっと主人公に「ひのきのぼう」を装備させるはずです。

さて「言い得るも三十棒、言い得ざるも三十棒。」という有名な言葉がありますが、徳山宣鑑禅師は弟子にいつも理不尽に「棒」を食らわせておったんですね。

「今日は私は何にも話さない。問う者があれば三十棒だ。」という様な事を弟子たちにいつも言う訳です。

質問する者には三十棒を食らわすぞと。

ある日一人の修行僧が徳山禅師の前に出てきて「お拝」をしました。

すると徳山禅師がさっそく、その棒でその修行僧を殴り付けてしまう。

当然修行僧が文句を言う訳ですね、

私は何も質問していません。ただお拝しただけじゃないですか。どうして私を殴るのですか?

ご最もですね。

「もし質問するものがいたなら三十棒を与えると言われたのに私はまだ何も質問しておりません。なのにどうして私をぶん殴るのですか。私はただお拝をしただけですよ。住職さん早とちりも甚だしいじゃないですか。」と言う訳です。

すると今度は徳山がその修行僧に質問した。

「お前はどこの国の出身だ。」

修行僧が答えて言った。

「新羅の出身です。私は朝鮮から来ました。」

すると徳山宣鑑禅師は次のようにいいます。

それではお前がまだ舟縁を跨ぐ前に三十棒を与えよう。

と。

つまり、

お前が新羅の国を出ようとする、お前が家の玄関を出ようとする、舟で朝鮮から中国へ渡ろうとする、その前にお前に三十棒を与えよう。

と言うわけです。

一体どういうこと?理不尽に「棒」でなぐられた当時の修行僧も同じことを思ったに違いありません。

我々人間が「道を求める」時は、自分の疑問を解決する為に道を求める訳です。

自分に分からない事があった時それを解消する為に質問したりするわけです。

今回のこの修行僧もそうだったんでしょうね。

そして自分の納得する答えが見つかると「ありがとうございました。」と言って感謝をする。

逆に納得できなければふてくされて、不躾な態度を取ったり、受け入れなかったりする。

しかし我々が生きている事実の世界には「疑問」というものが何一つありません。

例えば「坐禅」をすると足が痛くなる。これって当たり前のことですが、なぜ痛くなるのか?そのように疑問に思ったとしても、痛くなるから痛くなる。それ以外ないんですね。
もちろん、なぜ痛くなるのか?と聞かれれば、

足を同じ時間ずっと窮屈に折り曲げて、血の血行が悪くなり、また太ももの同じ部分にずっと足を乗せておるから、その部分がその重みのせいでだんだんと痛くなってくる。

このように人間は頭が良いですから、その「メカニズム」を説明することはできるかもしれません。

しかしそれがわかったところで、誰でも足を組めば痛いんです。足を組んで痛くならない方法はないんですね。だったら組むのをやめろと、それしか言いようがないわけです。

でもそれって何も真意には触れられていないですよね。なぜ足を組むと痛くなるのか?こんなことは解明などできるはずがないのです。

こうしたどうすることもできない問題を、我々人間はなぜか解消したいと思う。疑問に持ちたいと思う。
実に愚かですし、そのせいで普段我々はとても苦しい思いをしております。

我々の「命」や「本来の姿」には「疑問」が一つもない。

「疑問」というのは頭の中のみの出来事で、実際に存在しない概念に過ぎないからです。

さっき食べた「食べ物」やさっき飲んだ「お茶」がどうやって消化され、体内に吸収されるのかの「メカニズム」を知らなくても平気で「食べ物」も「お茶」も消化できてしまっている。

またそんな疑問とは関係なく、我々は常に、

  • 安心してお茶を飲んでいる。

  • 安心して寝ている。

  • 安心して呼吸している

美味い、不味いという我々の好みはあったとしても、平気で安心して食べて消化している。

そんな大切なことを見ようともしないで、人は「道に迷った」や、「真実の仏法とは何か?」などという議論を交わしたりする。

本当に面白いですよね。

どうやって食べたものが消化されているのか、どうやって呼吸しているのか、そんな大事な事を差し置いて、道を求めるんですから。

足を組めば痛い。これだけで人生の答えは全て出ているわけですね。
こんなにも揺るがない拠り所があるわけです。
そしてそれを心の拠り所にすればいいわけです。

我々は頭の中の出来事を解決する為だけに生きているのではない。頭の中の疑問を解決する為に坐禅しているのではない。

そうではなく、「生命の実物に帰る」為に、「本来の世界に帰る」ためにこのように足を曲げ、手を組んでいるわけです。

「言い得るも言い得ざるも三十棒。」何でも棒でブチ叩いてしまう徳山宣鑑禅師。

見事なことを「言っても」、「言わなくても」とにかく三十棒を食らわす。

「礼拝しただけ」のその修行僧にも三十棒を食らわす。

ただ冷静に考えてみれば、これはただの理不尽な行為ですよね。

しかし「理不尽だ」と思うのも、概念が生み出している世界である。

頭の中の概念のネットワークの中の出来事である。

普段我々が頭を悩ませている事象というのは、みんな頭の中の出来事でしかないわけです。

それを本来の世界に気づかせる。本来の世界に戻してあげる。その大切な役割をこの「棒」が担っていたわけです。

この我々が生きる世界には疑問や理不尽なことなど一つもないということを徳山宣鑑禅師は見抜いていたから「言っても」、「言わなくても」、礼拝しただけでも「棒」でブチ叩く。

それが「真実」だという事に気付いていたから。

何でも「棒」で殴ることで人を導いた徳山宣鑑禅師のお話を見てきました。

結論:それでも、ひのきのぼうは攻撃力が弱い。ドラクエは一番11が好き。

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