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「生」と「死」が存在しない?そんなアホな。

という、気持ちにして見せましょう、この3分で!笑

いきなりですが、我々は何か物を判断する時は必ず自分の「物差し」で判断をします。「犬のうんこはキモい」とか「おっさんはくさい」とか。

そういった自分の「物差し」というのを人間であれば必ず誰しもが持っているわけです。

そのようなものがつきまとうのは生まれ育ってからの習い性であり、ある意味仕方のないことでもあります。

ただこの「物差し」というのは自分にとって都合の良いものだけを寄せ集めて作られております。

つまりは自分基準。

しかし「仏法」の基本は「無我にて候う」です。

これが仏法の基本の「き」であります。

というのも大自然には本来そんな「物差し」は存在しませんので、当たり前ですが自分都合の「物差し」は通用しません。

一方で人間は育っていく過程でいつの間にかこの「物指し」だったり「自我意識」という物が形成されてしまう。

そしてあたかもそれが全てだとでも言う様に目の前に展開する大自然に自分の「物差し」を当てがって、その物差しで言葉や行動を形成していく。これが人間の誤った行動なんですね。

人間間でもその価値観の違いによって、争いが起きたりする。もうどうしようもなく厄介なものなんです、概念。

しかし世の中の真実としては、あらゆるものが「無常」しております。

変化し続けているんですね。

あらゆるものは変化し続けている。

今目の前にある「石ころ」であっても「一秒後」には姿を変えている。

しかしこの頭の中の「物差し」や「自我意識」というものは決して変化をしません。

「永遠」であります。

この「永遠」というのがいかに「自然」に反した表現か、なんとなくわかってくる。

そしてこの変化しない「自我意識」や「物差し」で人生を歩む以上、そこには誤りがあり、例えば「生死」というものがそこでは生まれます。

固定化したものがある以上、そこには「入り口」と「出口」が生まれ、そして生と死があるんですね。

しかし今目の前で展開している真実の在り様は、全て「無常」であります。

常に変化をしている。

自分の体一つ取り上げてもこの「細胞」、「骨」、「血液」、「皮膚」どれをとっても常に変化をして止まない状態である。

そして我々がよく言うところの「死」なるものも、骨となり、空に舞う、そしてそれが雲となり雨となり、地に降り注ぐ。

そこには何一つ滞りがありません。固定がないのです。無常ですね。

あるいは常に生き続けている、常に死に続けているという捉え方ができるのであれば、それはそれでいいのかもしれない。

我々人間は「自我意識」や「物差し」をこの世界に持ち込み、「生死」や「入り口」を作り出してしまう。

「生と死」これは固定です。つまり物事の概念化なんですね。物事の真実はそうではない。

確かに物事を概念化して固定化して捉えるというのはどこか「安心」したような気がしますよね。

繰り返しとなりますが真実はいつも変化をしている。「無常」である。

我々が生き詰まる理由はそれを知らないからです。概念という本来、真実に反したものにしがみつくから苦しいのは当たり前です。

結論:苦しいからなんだ!


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