ぶっちゃけ「坐禅」って何?なんでそんなことすんの?
今回は少し硬くいかせてもらいます〜。かなりボリューミーな内容となっておりまして、あなたにそれなりの気づきを与えられれば幸いです。
さて道元禅師がおすすめになる「坐禅」。
我々は生まれながらにして仏であるにも関わらず、なぜ修行をしなければならないのか?
このような疑問を当時の若かりし道元禅師はいだきました。
すごいですよね、、今の若者の中にそんな人は一人もいません。笑
その後中国へ赴き如浄禅師と出会い、様々な経験を経て、ついには正伝の仏法を日本にお持ち帰りになられます。
その日本へ帰国する際、道元禅師は「眼横鼻直」という有名な言葉残されておりますね。ご存じでしょうか?
この意味、気になる方はぜひ調べてみてください。
我々は生まれながらにして「仏」です。この世界そのものが仏の世界であり、我々人間もその仏から派生している存在に過ぎないからです。
この世界は「仏のみ」。まずここが理解できないことには、この後の文章もなんのこっちゃになってしまいますので簡単にご説明します。
たった1つの世界
皆さんは普段どれくらいこの「仏」という存在を意識していますか?これを聞いて中には「菩薩のような、めちゃくちゃ優しい究極の存在が見守ってくれているからなんの心配もいらない!そういうことでしょうか?」と思われる人もいるでしょう。
まぁそれもそれとしてあるのかもしれませんが、今回私がいうところの「仏のみの世界」というのはそれとは少し違います。
例えば自分が寝ている間に指示なんてしなくても食べたものを我々の体はきちんと消化してくれています。あるいは自分が寝ている間、自分という意識がない中でも呼吸をすっては吐いてを幾度となく繰り返してくれる。心臓も絶え間なく動かしてくれる。
人はこれを「心肺機能」が云々カンヌン、もとよりそういう体の性質だから云々カンヌン、それはもうすでに科学によって証明されているんだからとか云々カンヌンと言うわけですけれども、科学なんてのは結局は「後付け」でしかありません。
これは「脳が寝ている間でも心肺機能はしっかりと働いている、それだけのことだ」この一言で片付けてしまえるのかもしれませんが、それってその「本質」には一歳触れていませんよね。
なぜそうなって、なぜそれが行われているのか?については今後の科学によっても決して解明されることはなく、そもそもこれは解明できないことなんです。
今こうして何かふと考え事をしたりだとか、外のバイクの音と鳥の声とが同時に聞こえてくるだとか、それって実はとんでもないことで、そういったとんでもないことを我々は平気でやってのけています。
そのような尊い体をいただいていること、これがまず我々の存在においては前提としてあります。
また壁を殴ると痛いです。いきなりですが。それって壁によって自分の命が発生せしめられたということでもあり、つまりは「壁は俺」ということもであるわけです。
あるいは人とぶつかり合うとお互いが痛い思いをする。このように「命」には線引きがないんですね。世界には線引きがないんです。あらゆる物事には線引きがなく、線引きしようと思ってもできないんです。全てが溶け合っているんです。
このことを達磨様は「諸法無我」と言われました。
もちろんそれも都合の良い考え方に過ぎないのかもしれません。
しかし絶対的な事実として、その壁によって生まれた「痛み」があるわけですよね。全ては繋がっているんです1つの「仏」の命として。
ダラダラと書いてきましたが、これを冒頭で言うところの「仏のみの世界」というわけです。
つまりは私という「命」の起こりはたった1つの元から派生されている。その元となるのが「仏」というわけです。
そしてそれは紛れもなく絶対的な事実ということなんですね。
先ほどどれだけこの自分の体が尊いかという話をさせてもらいましたけど、そんな尊い自分の体を作っているのも、牛や豚さん、あるいは野菜、あるいは穀物。そういった「他」をいただき、「他」によって自分が成り立っているからなんです。
自分とは「他」でできており、「他」とは「自分」なのです。
呼吸もそう、我々は呼吸をしないと1秒たりとも生きていけません。そんな呼吸に必要な酸素も植物などが生成してくれるわけです。
もし仮に「自分の命」があるのだとして、そこにはおそらく「ここからここまでが俺の命」、あるいはそれは「ここからここまでが俺の酸素」という明確なものがあるのだと思いますが、しかしもしそうだとしたら東京のど真ん中に今いるあなたは即座に窒息死してしまうはずです。
ね?
「自分の命」と言うのは簡単ですが、その定義は非常に曖昧で、曖昧にせざるを得ない。要するにそれは単なる「概念」なのです。
自分の命などない。これが絶対的な事実なのです。
全てが支え合い、関連しあい、生かしあっている。この世の全ての存在は、この世のすべてによって生かされている。これが仏教の究極の教えなんですね。
そしてその本来1つとして溶け合っている、支え合っているこの世界のことを「仏」の世界といい、これが冒頭でお伝えした「全ては仏のみの世界」ということです。
このような絶対的な事実のもと、我々は普段生きているわけです。
そこにおいては気づくか、気づかないか、そういった問題もありますが、仮にその事実に気づけなくても生きていける。それこそまことの仏のご慈悲だとも思っています。
むしろほとんどの人がこういった事実にすら気づかず、死んでしまう。そのような有様です。
なぜ坐禅をするのか?
さて、この世界は仏のみで、この自分だと思っている存在も実は他に生かされている。全てはそうした関連の中で生きている「仏」であり、すべては1つに繋がっているというのは今お話しした部分です。
そんな仏の一部であるにも関わらず、我々が修行しなければいけない理由ここが今回肝心なポイントで、道元禅師のおっしゃる部分です。
世界は仏のみです。自分もその仏であり、この世界に自分という存在はなく、自分がないのだから、逆にすべてがこの自分とも言えるわけです。そんな仏である我々がこの世界で行うべきこと、それは、
自分(仏)が自分(仏)を自分(仏)する
ということです。仏の世界にあるものは仏のみで、それ以外はなにもないからなんですね。すべてが仏であると同時に自分そのものだからです。
なんだかとても読めたものじゃないですね。笑
方程式の話でもしてんのかこいつは。何が言いたいんだこいつは。
ここまでで色々な意見が浮かんでいることでしょう。
しかし今回は少し強引に、さらにもう一歩踏み込ませてもらいますね。
スズメがちゅんちゅん鳴くのと同じく、また猫がニャーニャーと鳴くのと同じく、この仏のみの世界で我々人間を人間たらしめる行い、あるいは仏を仏たらしめる行い。それが今言った自分(仏)が自分(仏)を自分(仏)することである。これが我々の本来のあり方、あるいは生き方に違いありません。
それはきっとスズメが鳴くのと同じように、猫が鳴くのと同じような、我々人間の正しい行いです。
スズメも猫も自分が自分を自分している。しかし我々人間はどうだろうか?
自分(仏)が自分(仏)を自分(仏)する。
このことを道元禅師は「仏道をならうというは、自己をならうなり」とおっしゃられたわけですね。
世界には仏しかいない、世界には自分しかいない。その事実があるのなら、その事実にそった生き方をしなければいけない。仏の一部としてのこの命を正しく使わなければいけない。燃焼し尽くさなければいけない。もしかしたらそのように思われたのかもしれません。
残念ながら世の中のために温暖化を防止するとか、募金をするとかそういったことをしたとしても、それは本来のあり方とは一切関係がないということなんですね。
なぜならそれは単なる人間活動の一環に過ぎないからです。
しかし気の利く人はここである矛盾に気づくはずです。
すべてが仏であるのなら、人間活動もまた仏の活動なのではないか?と。
これが仏だとか人間の行為だとか、その物差しこそあってはならないのではないか?と。先ほどの線引きの話もありましたし。
確かにこの世界はすべてが仏の賜物です。それでいうなら人間の活動も仏の活動と言えるかもしれません。
しかし人間の活動の主観となる部分はすべて「自我意識」です。
冒頭でもお伝えしたようにその「自我意識」というのは本来存在しないものです。
この世界は仏として1つに繋がっている。つまりはこの体も仏から借りているものにすぎません。
自我意識をもつということ、またその自我意識に基づく行為というのはその本来の仏の世界あから離れていく行為なんですね。
そのため仏法においては特にこの「自我意識」についてはあってはならないものとして固く批判がなされております。
「仏法は無我にて候う」といった言葉もあって、世界には自我はどこにもなく、一方であらゆるものが自我であるという、決して個人レベルの自我意識が入り込む余地はないことを説いているのです。
本来存在しない自我意識にも関わらず、いつしか当たり前のようにこの自我意識「なるもの」が作り出され、その架空である個人の自我意識と個人の自我意識とで形成されている、それを人間活動と言います。
これがいかに真実の道と反しているのか、想像に難くないはずです。
これは仏の行いであり、これは人間の行いであるといった考えは、これは確かに線引きなのかもしれません。しかし線引きをなくすためのあえての線引きとでも言いましょうか。
ただそれでも冒頭でもお伝えしたようにこの世界の物事には何1つ線引きができません。これこそ真実、これこそ仏という物差しすらもあってはならず、それは存在しないはずの単なる概念です。
なので黙って壁に向かって坐るしかない。きちんと概念ではなく実物で伝えるためには実践するしかない。「面壁九年」。達磨様はこのことにただひたすらに正しく向き合い続けた。壁に向かってただ坐り続けた。だから今日までに正伝の仏法というものが伝わってきたのかもしれません。
道元禅師の「只管打坐」も、ここが最大の味噌となる部分なのです。
少し話は脱線しましたが、この世界は「仏のみの世界」。そしてそこでは我々は仏として生きており、仏からこの体は借りているにすぎません。
そんな世界で我々が行うべきこと、行うことが許されていることそれが先に言った自分(仏)が自分(仏)を自分(仏)する。ということなのです。
そのことができた時、初めて我々にとって正しい命の使い方ができた時なんですね。正しく生きられた時なのです。
これは概念の話ではなく、絶対的な事実の話ですね。なので仏教徒だけでなく、イスラム教の方であろうと、キリスト教の方であろうと、主婦であろうと、総理大臣であろうと、同じことが言えるわけです。
普段ただ仕事に追われ、なんとなく生きている。そこにおいてはお金を稼ぐために仕方なく行っていることだ!そのようにほとんどの人が思われているはずです。
しかしそもそもそのお金というのが紛れもない架空の概念です。その架空の概念に振り回されて人生を終えてしまう。ほとんどの人がこのような有様でしょう。
そんなことでは一向に生きていないのと同じだというのを道元禅師はおっしゃられているんですね。
我々が真実に生きることとはどういうことか、この仏のみの世界で我々が行わなければいけないことは何か?この仏のみの世界で呼吸をするためには、生きるためにはどうすればいいのか?
道元禅師はこうしたとても難しい問題も、このようなアプローチの方法で解決されたのです。
我々は真実に生きるために生まれてきました。だから今こうして生きているのです。
本来仏として生まれており、仏として生きていかなければならないのが本当の我々のあり方です。
スズメや猫と同じように、正しく生きていかなければいけないわけですね。
幼少期の道元禅師はこのことにいち早く気づかれたわけですね。
我々は生まれると、いつの間にか「自我」というものをこの世界に勝手に作り出し、いつしかこの仏の世界に一線を画し、その仏の世界を遠ざけてしまうようになりました。
そして本来の我々の目的が見えづらくなってしまったんですね。我々が本来は仏なのだということを誰も気づけず、そして仏として1度も呼吸せずに死んでいってしまう。それが今の人間の実情です。
あるいはざるでなんとかして「仏」を掬おうとしているのが今の我々です。
しかしそんなことはしなくてもただそのざるを仏の水の中に浸ければいいんですね。この世は「仏」のみの世界なのだし、そもそも私そのものが「仏」なのだから、「坐禅」を通し、自分という仏の家に帰ればいいだけなのです。
なので「坐禅」は「安楽の法門」と言われるわけです。
人間活動をやめ、真実の世界に生きる、立ち戻る。「本来のあり方」として生きていくことを可能にする。自然のありのままの命を余すことなく達成する。これが簡単に言えば「坐禅」です。
我々はこの「坐禅」を通して初めて「本来のあり方」となるんですね。本来の仏として生きることができるのです。
今はそうではありません。今はその仏の世界からどうにかして出ようとしている。概念に囚われ本来の命を放棄しようとしている。これが今の人間の実情です。
我々が仏として生きることができたその時、我々の本当の命が芽生える瞬間であり、我々が生まれてきた目的が達せられる時です。
そうさせてくれるのが「坐禅」ということです。
「坐禅」はこの自分のみの世界で自分が自分を自分する行いです。要するに確かに命を燃やせている状態です。それはこの世界でたった一人きりの自分(仏)を一身に引き受けた紛れもない生命の実物だからです。確かなことだからです。
ですから坐禅は仏行と言われ「一寸坐れば一寸の仏」の言葉で言っているのはこのことなのです。
そんな坐禅をみんなが行うべきですよね。なのでお釈迦さまを初め、達磨さま、道元禅師が命をかけてこの「坐禅」を伝えようとしてきたというわけです。
「坐禅」は仏行として古くから、捉えられてきました。
ものすごく色々なことを書いてきてしまいました。非常に読みづらいコラムにも関わらずここまでお読みいただきありがとうございます。
この世界は仏のみです。しかし我々がその真実の世界に気づくことはなかなかありません。一般人の方であれば尚更これは難しい気づきでしょう。そして真実に生きられずに終わってしまう。
道元禅師はそうであってはならない、我々がもれなく本来の生き方、我々が本来の目的を達成するためにこの「坐禅」を推奨されるわけです。
我々は生まれながらに仏であるにも関わらず、なぜ修行をしなければならないのか?
この「答え」はこのようにして導かれたのでした。
道元禅師をはじめ、過去の祖師方がこの「坐禅」の実践こそが真実であるとし、数多く実践されてきました。
近年でも「禅ブーム」が流行し、生活の一部にこの「坐禅」を取り入れる方も多くなってきております。
しかしこの「坐禅」の本当の意味を正しく捉えられている方はどれほどいるでしょうか?
結論:黙れ、クソ坊主。
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