見出し画像

動物、飼う?飼わない?

今日、一般の人とこんなことを話しました。

「〇〇さん家ってお寺ですよね?犬とか猫とか飼っているんです?」

「いいえ。」

「なんかお寺っていうと、猫とか犬とかそういう何かしらの動物を飼ってそうなイメージがあります!だって、ほら!福井にある「御誕生寺」みたいに、猫寺で有名なお寺もあるじゃないですか!」

「確かに。でもウチは住職(父)が決して許してくれなかったんです。そういう動物を飼うということを。お釈迦さまがかつて言ったことで「いきとしいける動物は全て同じ命の重さである」、それにちなんでなのか、我々人間が他の動物を飼うという行為に抵抗があったんだと思います。そしてお釈迦さまの教えをきちんと守っていたんだと思います。だから私の実家ではこれまでに一度も動物を飼ったことがありません。」

このような返答すると、その方はひどく感激されたようで、そのような考え方、またその考え方をきちんと守ってきた我々を称賛してくれました。

私はでもそこで、「確かにそうした考え方って、普通じゃないんだよな〜」とかと思いつつ、でもやはり我々にとってはそれがひどく当たり前のことでもありましたし、在家の方、出家の身である我々の生活態度に改めてギャップがあることに気付かされました。

我々としては実に当たり前のことです、なのでいまだに人間が動物を飼うということに抵抗がありますし、人間がリードを引いてワンちゃんをひっぱている姿をみると少し戸惑いを覚えます。
実に不自由な生き方をしてるんです、出家のものは。

特に仕切りに面倒だと思ってしまうのは、「今の私をお釈迦さまはどのように思われるだろうか?」そう言った思いに常に縛られるということです。

もちろん出家のものでも、常に動物を飼っている、あるいはそれを良しとしている人間も多くいます。

先の「御誕生寺」がそうですけど、寺として、あるいは住職としてその道に通ずるものであってもそんなものどこ吹く風の如く、犬や猫とともに暮らしております。

私は思うんですけど、本当はそれでいいんだと思うんですよね。

だって「飼う」とか「飼われる」とか、「命の重さはこっちの方が軽い」とか「こっちが重い」とか、そんなのは単なる人間の概念に過ぎず、それこそ人間の物差しに過ぎないからです。

飼われている猫は自分が飼われているなどとは一切感じていないはずですし、命の優劣がどうこうと、我々宗教者はよく言いますけど、そんなもの論じたところで、命の重さは結局は何も変わらないんですね。
心配するまでもないことなんです。

当時のお釈迦さまもそういった意味で言っていたはずで、間違った捉え方をしてしまっていたんだなと今思ったりもするわけです。

犬や猫からすればそこに住まわせてもらっているという一つのご縁。我々人間も、ここに住まわせてもらっているに過ぎない。猫や犬がお寺に来たのであれば、それは黙ってお寺の中に入れてあげること。そしてその一つの傘の中で生活を共にしていくこと。

おそらく今後も私はどうしてもこの「飼う」という認識が消えませんので、今後はこのような捉え方で生きていきたい、そのように思わせてくれる今回の出来事でした〜。

我々はこの仏の世界で同居しているもの同士で、仲間なんですよね。

水槽の中の魚からすればそこが宇宙一杯。

宇宙というのは狭い、広いではなく、そこでも確かに存在しているということ。

水槽の中の魚は確かに早くに死んでしまうだろう。それは人間のせいなのかもしれない。

しかしそこでは確かに彼らは宇宙いっぱいにいき、宇宙一杯に生きた結果がその寿命だったわけだ。
彼らには狭い広い、そういった物差しはなく、水のあるところであれば際限なく泳ぎ回る。そして黙ってそこで命を全うする。

飼う飼わないは単なる概念上の取り決めでしかなく、そこでは我々も動物も宇宙一杯の命を展開しているわけです。

常に我々は宇宙いっぱいの命をいただき、それを展開することができているわけです。

かつて鈴木大拙という禅僧がこう言いました。

「本当の自由とは肘外に曲がらずである」と

結論:猫は可愛い。飼いたい。もふもふしたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?