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「死」とは?死んだらどうなるの?

標題に関して、おそらくこれを考えない人はいないですよね。これまで誰もが一度は考えてきたことのある問題のはずです。

実に恐ろしい問題ですね、、

もちろん今この記事を読んでるあなただけでなく、これまでの人間の歴史において最も重要な問題であり、本当に多く考えられてきた問題に違いないはずです。

それをこんなどこぞの馬の骨ともしらない変なやつがいきなり語り出す。笑
恐ろしいですね。

でも語らせてくださいよ〜。

私はこう見えて寺の生まれで一応修行も数年してきた経緯があります。

またそれはそれとして、今回のこの問題に関しては私自身幼い頃からよく考えてきた問題で、結構本当に真剣にこの問題と向き合ってきたと思っています。

どこぞの馬の骨であることには変わりありませんが、聞く価値はあるはずです。

それに今はインターネットがあって、オープンソースの時代。誰もがある程度自由に語りたいことを語ることを許される時代です。笑

ただそうだとしても、やはりこの問題は相当辛辣な問題ですし、これを語る以上、誰かを変に不安にさせたりしないよう努める必要があるとは思っています。

以上を踏まえ、それでも語らせていただきます。

それでは早速ですが「死」とはなんでしょうか?このことがわかれば今回の問題の何が本当の問題たらしめているのか、そこを可視化できるはずです。

ところでみなさんは「一遍上人」をご存知でしょうか?

この一遍上人は過去にいた浄土宗のお坊さんです。

その浄土宗においては何よりも「念仏」を重んじる習慣があって、この「念仏」を唱えれば阿弥陀仏の本願により往生可能であると人々に教えているんですね。

そもそも修行者であるなら尚更、この「念仏」を唱えんでどうする?そのように教えられているわけです。

そこでこの「一遍上人」もひたすら「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることを実践されていたと言われております。

そんな一遍上人が、

「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして。」(一遍上人)

という詩を作られたんですね。

この世界の真実を歌い上げようと、この世のありようを示そうとしたのでしょう。

「この世界に仏も私もありはしない。あるのは南無阿弥陀の声ばかりだ」。端的にいうとこのような要約となるでしょうか。

実に素晴らしい「詩」ではないかと思いますね。

しかしその「詩」を聞いた一遍上人の師匠にあたる「聖達上人」が次のように言います。

「とてもお前のこの詩では「真実の世界」には至ってない。しっかりと唱え直しなさい。(聖達上人)」

何故、このように師匠に否定されてしまったのでしょうか?

つまりこれは「傍観者の詩」であり、「他人ごとの詩」であると師匠の聖達はいうのです。そしてそれだと真実ではないということですね。

「南無阿弥陀仏のこえばかりして」というのは、「南無阿弥陀仏」を唱えた時、それをどこかできいている「自分」がいるわけですよね。

自分がたった一人で「南無阿弥陀」と唱えたとき、そこには自分しかいないはずです。ドッペルゲンガーがいない限りですね。

自分が念仏を唱えるときには自分しかいないはず。にもかかわらず、

「となふれば、我も仏もなかりけり。南無阿弥陀仏のこえばかりして。」

これでは自分以外にどこかでその「南無阿弥陀仏」の声を聞いているもう一人の自分がいることになってしまう。

「これは今置かれている自分のことを正確に歌い上げられていない。これは間違いであったか・・・!!」(一遍上人)

その事にふと気が付いてですね、そして再度「一遍上人」が「詩」を作り直すんです。

「となふれば、我も仏もなかりけり。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」(一遍上人)

この「詩」を作った「一遍上人」もようやく「聖達上人」から認められたという逸話が残っております。

それでは何故、

「となふれば、我も仏もなかりけり。南無阿弥陀仏のこえばかりして。」

は認められず、

「となふれば、我も仏もなかりけり。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」

は認められたのでしょうか?

それは「傍観者」であるか「当事者」であるかの違いです。

「となふれば、我も仏もなかりけり。南無阿弥陀仏のこえばかりして。」

先ほども申し上げた通り、この「詩」だと自分が念仏を唱えている、その状態のことを歌っているのに「南無阿弥陀仏」の声を別の「自分」が聞いている事になってしまいます。

一方で、

「となふれば、我も仏もなかりけり。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」

こちらの「詩」をみると、自分が唱えている時そこには「南無阿弥陀仏」の声を聞いている「自分」はどこにもいないですね。

自分はこの世でたった一人ですし、これが正しい「真実の世界」であるというのです。

もし自分が2人いて、自分が「南無阿弥陀仏」と唱えたら、同時にそのもう一人の自分がその声を聞くことができるのかもしれない。

またもし誰かが「阿弥陀仏」と唱えた時、その場にそれを聞くことのできる誰かがいたとしたら、その人の唱えた「阿弥陀仏の声」も認められるかもしれない。なので先ほどの誤った詩もあながち間違っていないのではないかと思えてくる。

この世界には確かに1人1人、別の人間がそれぞれあらゆる場所に多く存在していますからね。

しかし同時に自分がどこかに存在しているわけではなく、また確かに様々な場所で多くの人間が存在している一方で、その1人1人においては先ほどの詩にみるように、世界には自分1人しかいないわけで、その念仏を唱えている自分は私1人しかいないわけですよね。

つまり全ての人間にとってこの世は私「1人きり」なんです。誰もが完全孤独なんですね。ドッペルゲンガーなどいません。

そんな世界において、その人間こそが当事者。その人間からすれば世界と自分は常に共にあるわけです。「阿弥陀仏」を唱えている自分だけ。その唱えた声すらも自分ということです。

つまり誰にとっても世界と自分は共にあるわけです。全ては自分であり、全ては自分から離れないわけですね。ということはこの広い世界というのは誰にとっても、自分そのものであるわけですね。

しかしそうなると人間の数だけ世界が存在することになります。

そうではないですね。人間の数だけその分世界がたくさんあるわけではなく、世界はたった1つなのです。同時に別の世界がいくつも別の時間軸で存在しているわけではないので。

ということは人間もたった1人ということ。

とするならばいまこの世界とともにある私(あなた)こそ、そのたった一人の人間だということ。

あなたが当事者ということです。

この世界はあなた1人だけだということなんです。

要するにこの世界は全てが自分自身と繋がった世界だということで、全てが自分だということなんですね。この世界は「俺一人」なんです。

また自分自身が南無阿弥陀仏の声そのものであるということなのです。

それをこの2つめの詩では見事にうたいあげているんですね。

たった1つのこの世界では「傍観者」が誰一人いない。「南無阿弥陀仏」を唱える「自分」しかいないのです。

その自分が「南無阿弥陀仏」と唱えている最中に、その「南無阿弥陀仏」の声を聞いている「別の自分」がいるはずがないのです。
「南無阿弥陀仏」の声を聞くことなどできるはずがないのです。

別の言い方をすれば、常に「自分」が「自分」に出会っているのです。

例えば、目の前にある「壁」も自分です。何故なら「壁」をたたけば「自分の手」が痛くなるからです。

そしてそれは言い方を変えれば「壁のおかげで手が痛くなった」ということですね。

壁のおかげで自分の命が生じた。つまり「壁」が自分なのです。

そこには「壁」と「自分」という隔たりがない。

人間においても同じです。例えば今満員の電車内で誰かと手を握ったとして、暖かくなる。もしかしたら突き返されて痛い思いをするかもしれない。

それはつまりその人によって自分の命が生じたということ。他人と自分の間に命の線引きはないということで、他人が自分だということです。

世界はこのように自分と常に繋がっており、一つの仏の命として溶け合っております。

「私」と「あなた」といったふうに2つに分かれるはずがないのです。

これこそが「真実」の世界です。

自分以外は存在せず、自分が消滅すれば世界も生滅する。

それが「真実の世界」のありようです。

だってそうでしょう?

今回の一遍上人の詩と同じく、自分がいなくなったあと、自分のいない世界を果して自分がみることができますか?

あなたが幽霊になってこの世界に留まり続ける事ができるのならそれは可能かもしれない。

しかし、それはできません。

世界と自分は一つとして溶け合っており、自分以外などどこにもない。

さてそこで今回のテーマの話に戻ります。「死とは何か?」ということです。

自分が死ねば世界も死ぬ。隣の人も死にます。世界と自分は1つだから。あなたと隣の人は1つだからです。

これって要するに死がないということなんです。

だってあなたが死んだとしても世界はありつづけるから。

これは言ってしまえば生もないということにもなる。

死にもしないし、生まれもしないというのが仏法としては「究極」のところでしょう。

これを有名な言葉で「父母未生以前」と言ったりします。「父や母が生まれる前の自分を言い得てみよ」と。

生や死というのは単なる概念にすぎず、ただ事実として壁を殴る人の今、そして殴られる壁の今がある。

その際壁を殴れば確かに自分の手が痛くなるという事実がある。生も死もないひと繋ぎの命がそこにはある。

私の力量ではこれ以上のことを言いえることは出来ません。これは非常に大きな問題です。

「世界も死ねば自分も死ぬ。」今回言わんとしたかったことはこれです。

我々が死にたくないと思うのは自分が死んでも世界はあり続けるだろう、その際その死後の世界と自分の関係性をどう捉えたらいいかわからないからです。それで途方もなくなるからです。そしてそのせいで不安でどうしようもなくなるからです。

しかし残念ながらというかなんと言うか、あなたが死ねば世界も死にます。一方で世界は決してなくなりません。

あなたが死んでも私は生き続けるからですね。よってあなたは死なないからです。生もなければ死もない。これが真実のありようです。本当の存在ということです。

道元禅師はこのことを「このゆえに生は死を罣礙せず、死は生を罣礙せざるなり、尽大地尽虚空、ともに生にもあり、死にもあり」という言葉でお伝えになられております。

事実、我々は死にます。死ぬと葬儀をして火葬をして、骨となります。

しかしその仮定の中であなたの身は煙となり、雲となりそれは雨を降らすかもしれない。その雨で他の生物が芽吹いたり、土葬などすれば土中の微生物が私の死骸を食べて、命として繋いでくれます。

そうならなかったとしても遺体が火葬炉に入れられ、ゴォーという音を立てて、その音が別の誰かの耳の鼓膜を震わせている。その時点で私はあなたなのです。

世界はどうやら1つだけというのは間違っていなさそうですね。

死の捉え方に対してのアプローチは人それぞれです。自由に考えればいいと思います。今回の私がお伝えしてきたこともある1つの考え方といえばそうなのかもしれない。

もしこの記事を読んだ人で、これがきっかけで少しでも楽な生き方を送れるようになれば幸いです。

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