【自由とロックと村社会】映画『イージー・ライダー』デニス・ホッパー監督
1969年公開の永遠の名映画。
胸糞悪い南部のレッドネック(カッペの意)は、現地の「本物」を使ったそうだ。
彼らの病的な保守性は日本の田舎町の閉鎖コミュニティと何ら変わらない、
カッペはグローバルなのだ(この形容矛盾、自分で笑った笑)。
ただ、当時10代だった私がこの映画から学んだのは、
「ヒッピー・コミューンのヒッピーどものクズっぷり」
の方からである。
キャプテンアメリカとビリーは、コークの取引で手に入れた金をバイクのタンクに突っ込み、ニューオリンズ目指してバイクでアメリカ大陸を疾走する。
その途中で、ヒッピーたちが自給自足で生活するコミューンに立ち寄る。
「自由な」ヒッピー・コミューンの女の子たちとねんごろになりながらも、
そこに暮らすヒッピーたちの「閉鎖的なコミュニティ」から次第に疎まれ、最終的に排除され、
二人はヒッピー・コミューンを後にする。
このシーンで見た、
「自由」なはずのヒッピーが、その実、集団になった途端に村社会を形成し「よそ者」を排除する。
すなわち、
「意識高い風味」が、結局「自由を求めた挙句に村社会に逆戻り」という実に象徴的なシーンであった。
私がこの映画を観た時点では、「フラワームーヴメント」も「学生運動」もとっくに終わっていたが、
「あの手の連中」は手を変え品を変え時代を変えて2020年代の今にも残っているのである。
例えば日本ならば、
閉鎖的な田舎から自由を求めて上京した筈が、気がついたら都会の業界の村社会にスッポリと収まる。
そんな事例を山ほど目にした。
10年位前に某高偏差値大学卒のイケメン兄弟ロック・バンドと知り合いになった。
「俺がこんな才能とルックスがあったらなー」と笑、憧れを持って接していたが、急に大◯◯章という「日本ロック村」の業界ゴロじじいに擦り寄って行って、彼の「村」の住民になってしまった。
私は「ダッセー!」と思ったが、まあ彼ら自身の青春の選択なので放っておき、縁を切った(結局彼らは活動停止したらしい)。
「日本でロックやってくには仕方がない」のかどうかは知りませんが、
ロックだけでなくヒップホップ、レゲエ、ジャズ、そして「アート」の皆さんも、結局は「村社会大好き!」なのである。
そもそもライブのMCが「○○くんと、○○さんと、○○くんに感謝!」って、全く村の結婚式の祝辞じゃねえか笑。
そして彼らを見て思うのは、
「なんて不自由な人たちなんだろう」と、
何のためのロック?ヒップホップ?レゲエ?アート?
だって、結局、ただの村社会なんだもの。
そしてそして『イージーライダー』である。
「自由を求めて走ったが、そこに結局「自由」は無かった」
というのが一般的な解釈だが、
私は全くそうは思わない。
最初からずっとイージーライダーたちは自由であり、自由を突き詰めた果てに彼らは「消える」。
ラストシーン。
レッドネックに撃たれ、カメラは地上を離れて上空へと登るが、彼の死体は無い。
「連中は個人の自由についてはいくらでもしゃべるが、自由なやつを見るのは怖いんだ」
そう、
自由はいつでもあなたの側にあるのだ。
ピース✌