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【極悪女王】キモ映画ヲタ,蓮實重彦,昭和の闇。

さて、「シネフィル」やらと名乗る単なるキモ映画オタクについて以前書いた。

この、映画キモヲタを大量に生み出したのが蓮見重彦であることに間違いはないだろう。

映画キモヲタたちは「蓮實重彦ワナビーズ」として、名画座やインターネットの片隅で日々映画を語っている。

この連中の所為で、私は小津安二郎やジャン=リュック・ゴダールを避けていたのだ。

もちろん私は小津安二郎映画もゴダール映画も大好きだ(ただ、青山真治や黒沢清はもう全く生理的に合わなかったが、、)。

そして、映画キモヲタは「文化芸術愛好家カースト」の中で最下位に居る話は同じく上記のnoteに書いた。

何しろこの界隈には「女の子が寄り付かない」のである。

「可愛い女子」は文化芸術の最大最高のパトロンであり、彼女たちは名画座界隈には全く居ない。

ひたすら、神保町とかで買った古本とか片手にした男映画キモヲタが灰色のオーラと共に集っているだけである。

そんな彼らを生み出したのが蓮實重彦なのである。

私は蓮實重彦の本を試しにチラリと読んでみたが、
その「薄気味悪い文体」に1ページ読んでそっと本を閉じた。

恐らく、その「語り口」が映画キモヲタの琴線に触れまくるであろう、キモはキモを呼び寄せる。

そして、どうやら蓮實重彦は私が大好きな黒澤明監督をDISっているようなのだ。

いや、全く根本的に相性が悪いようだ。

という訳で、私の中では蓮實重彦はニルヴァーナと上原ひろみと並んで
「私の悪の枢軸(My Axis of Evil)」と呼んでいる。

さて、そんな蓮實重彦が絶賛している映画が『カリフォルニア・ドールズ』、
我が愛しのバートが主演の名作『ロンゲスト・ヤード』のロバート・アルドリッチ監督作だ。

『カリフォルニア・ドールズ』ロバート・アルドリッチ監督

「まずは敵の手の内を知ろう」と、私は『カリフォルニア・ドールズ』を観た。

あの名作『ロンゲスト・ヤード』の監督だから、いくらファッ◯ン蓮實重彦と趣味が合わずとも、きっと素晴らしい作品だろうと予測していた。

と・こ・ろ・が、だ、

この、二人組の女子プロレスラーとピーター・フォーク演じるマネージャーが、ドサ回りをし紆余曲折を経ながらサクセスへと向かっていくという単純明快な映画が全くスイングしないのである。

理由はすぐに分かった。

「プロレス」というものの定義があやふやなまま最後まで話が進むからである。

ドールズが凹んだり、頑張ったり、ヒール・チームとぶつかったりするのだが、その肝心のプロレス・シーンが「どっちつかず」なのである。

故に、舞台裏の葛藤シーンも大変に居心地が悪いものなっている。

この『カリフォルニア・ドールズ』が公開されたのが1981年、
WWEが「プロレス、エンターテイメント宣言」を行う遥か以前のことである。

この制作陣はプロレスを一体どう考えていたのだろうか?

つまり、
プロレス自体への掘り下げが全く無い、という致命的な瑕疵を抱えたまま映画を作ってしまったようなのだ。

そして、こんな映画を絶賛する「おフランス系キモジジイ文化人」の頓珍漢っぷりには呆れ果てた。

そんな「プロレス映画」の消化不良状態を解消したのが、ダーレン・アロノフスキー監督の『レスラー』である。

『レスラー』ダーレン・アロノフスキー監督

ここでは「プロレスはプロレスそのもの」として描かれる。

そもそもプロレス史における「リアルファイトと八百長」というリテラシーの低い文脈は、大相撲の流れを汲んだものであり、日本のプロレスが大相撲とアメリカン・プロレスの出会いから生まれた歴史的文脈上にある。

また、私がアメリカに住んでいた時も「こんなものはフェイクだ」としたり顔で言うアメリカ人が居たものだったが、そもそもプロレスをそのような「リアル:フェイク」文脈で捉えてしまう知性と感性の無さを自分で暴露しているだけなので、ただただ憐れむだけであった。

さて、『レスラー』によって遂に「プロレスはプロレスとして」描かれた。

この映画には元ネタがあり、それはWWEの内幕と描いたドキュメンタリー映画『ビヨンド・ザ・マット』である。

『ビヨンド・ザ・マット』バリー・W・ブラウスタイン監督

ここで、ザ・ロックとミック・フォーリーが試合前に「段取り」を確認するシーンが映し出されるが、それが「超カッコイイ」のである。

「ここで俺はこう動くから、オマエはこうリアクションしろ!後は流れで!」

つまり、この二人にとっての本番は「vs 観客」なのである。

そして、このドキュメンタリーでのジェイク・”スネイク”・ロバーツの「プロレスラーの舞台裏の悲哀」のエピソードは、そのまま『レスラー』に移し替えられてミッキー・ロークによって演じられる。

痛み止め薬、ステロイド、酒、失った家族、引退後の身体の不調、そしてドラッグ、、、

プロレスラーの舞台裏は真っ暗である。

その「漆黒の闇」にプロレス・ファンは引きずり込まれるのだ。

そして2024年、決定的なネット・ムーヴィーが登場した。

『極悪女王』である。

この、コンプライアンスとネット監視社会のどん詰まりの時代の空気を突き破ったのが「あの頃の全女」なのである。

あの頃の全女は「いかがわしさと優しさ」に溢れていた。

まず、ミゼット・プロレスラーの登場で涙腺決壊である。

当時は、前座として小人プロレスが定番であり、リトル・フランキーを筆頭に名レスラーが数多くおり、そのプロレスのクオリティは極めて高く、
彼らを取り巻く空気は優しさに溢れていた。

そして、「全国不幸自慢」の様な少女たちが集まって、田舎のおっさんたちの性的、かつ好奇の目の中で試合をするのだ。

私は子供の頃、その「闇」に激しく惹かれた。

地方の体育館の薄暗い照明、薄幸な少女たち、小人プロレス、、、、

それは「昭和の闇」そのものであった。

『極悪女王』の制作陣は、それをコンプライアンスとネット相互監視社会の「どん詰まり状態」である令和にぶつけてきたのである。

「あの頃」の全日本女子プロレスや国際プロレスの「いかがわしさ」「怪しさ」「悲哀」そして「優しさ」を丸ごと真空パックして令和に解放したのである。

それはムーヴィーのディテールの徹底したこだわり(エキストラに至るまでの当時の衣装や背景)によって「濃度」が著しく高まっているものだった。

何故、「元ネタ」も知らない人々が『極悪女王』に熱狂しているのか?

それは、「人間の闇」への渇望に他ならないのではないか。

現代の時代から消された「人間の業の肯定(by立川談志師匠)」が落語やプロレスの中には生き続けているのである。

もっと世界に「闇」を!

もっと世界にプロレスを!!

完。










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