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#映画感想
マイ・インターン(3回目)
出先で流れてたのを見ただけだし、ちゃんと見たわけじゃないし、過去に何度も書いてるからあれなんだけど……
マイインターンといえば最後のシーンですよね。もうこれから俺たちは何を焦って始めることはない。ということにジュールズが気づく。ベンは毎日こんなことをしていたのか。確か冒頭にもありますよね?見逃してしまった
マイインターンといえばよくサムネイルに使われるベンがジュールズに試算表だかなんだかを提言
No Sorry, ONE TEAM
レイクビューテラスを見終わった。パルプ・フィクションやその他いろんな映画で鬼かっこよかったサミュエルエルジャクソンがどんどんオワっていくぶっ壊れていく話だった。
パルプ・フィクションでのジュールズは何度も言ってるが相対評価にすぎないとぼくは思っている。偉そうなものいいで悪いとは思っている。
だが、ほかがアホすぎる。雑魚すぎる。ただボスとブルース・ウィリスはもらい事故と言わないといくらなんでも可
バースデー・パトロール 後悔する3つ
レイクビューテラス危険な隣人を見てる。サミュエルエルジャクソンの映画である。2009年前後?ぼくにとってはサミュエルの映画はなんであろうと新しいが、この年代のってそう新しいとは言えないのか。
途中まで見ててよくわからん。いわゆる何が起こるかわからんものはスリラーとか呼ばれるんだろうなと思いながら見ている。主人公のサミュエルが警官なのでやってることはクライムサスペンスになろうという感じか。ともあれ
戦争をエンターテインメントにしろ
注意としては映画が人を選ぶ。味方であれ敵であれ、暴力は即否定する向きの人には向いていない。そしてぼくもそれを否定しない。いついかなる場合でも暴力を受けたとて暴力で返したら同じである、という意見が存在することを尊重する。ぼくも同調するケースもあれば、しない場合もあるだろう。
映画が人を選び人も映画を選ぶが、とにかくクソ以下のカス野郎が一匹出て来、そいつの「活躍」という胸くそ芸に付き合わねばならない
余った時間でレディー・ガガ どうもーLa.おかきでございます
セレンディピティという映画のさわりだけ見た。なんといえばいいのか……
ここまで験担ぎを信じて生きている女に執着する男がずんのやすトークライブに髪があるバージョンに見えてしまった。いずれ有名な演技者なのだろうが、初めて見たので名前を失礼する。
またこの異常な女も異常にきれいな女だった。こちらも名前を知らんので失礼する。あとで調べてタグにでもする。
だけどマジで女と男の出会いをこんな感じにするって
ピアノ・レッスン(今年の映画)傍白
アメリカの人種史をピアノが語ってる『ピアノ・レッスン』が単なる家族の争いを描いた物語に留まらないのは、ピアノという象徴を通じてアメリカの人種史に深く切り込んでいる点だ。
舞台である1930年代のアメリカは、大恐慌の余波と人種的抑圧が色濃く残る時代。
この文脈を踏まえると、ピアノに刻まれた家族の歴史がどれだけ重い意味を持つのかが見えてくる。
1. 奴隷制の記憶が残した傷跡
家族史を彫り込んだピア
『ピアノ・レッスン(今年の映画)』「ポケモン・ショック(1998?)」
ポケモンショック的演出の極端さ『ピアノ・レッスン』における演出の中で、特に山場での「ポケモンショック」的な表現は大きなポイントだ。この一見過激な演出が、映画全体のテーマやメッセージにどう結びついているのかを考える。
1. ポケモンショック的表現とは何か
視覚的な過剰さ
「ポケモンショック」とは、視覚的な刺激が観客に直接的な衝撃を与えるような演出を指す。『ピアノ・レッスン』では、ストロボのよう
『ピアノ・レッスン(今年の映画)』遺産、家族、ギスギス、修羅場
『ピアノ・レッスン』を観てぼくが最初に感じたのは、「またか」という疲労感だった。
映画の裏にデンゼル・ワシントンの影が見えるとき、その結末には一種の覚悟が必要だ。デンゼルが裏方で関与した映画に共通するのは、視聴者の心を一切容赦せず、息苦しいまでのリアリズムと圧倒的な修羅場を提示することだ。
『フェンス』や『マ・レイニーのブラックボトム』で描かれたような、家族や社会の中でのギスギスした緊張感が、
映画を数字で評論するほど無意味なことはない
『ノクターナル・アニマルズ』論考
『ノクターナル・アニマルズ』という映画は、非常に多層的なテーマと物語構造を備えた話であり、その解釈や評価が単純な「点数」では到底語り尽くせないことを痛感する。
美と醜、愛と裏切り、復讐と救済の狭間に立つこの話は、観る者を深い考察へと誘うが、同時に強い不快感や混乱がガーンと来る点で議論を呼ぶ。
ぼくがこの映画を観て感じたことを、以下に多面的に掘り下げていく。
ルーガルー人狼を探せのかんそう2
世代間ギャップをテーマにすること自体が、もう「一つの古い題材」に見える。現代の設定に古い題材を重ねて「世代間のズレ」とか「断絶」を扱うっていうのはわかりやすいテーマに見えるけど、「対立軸」を無理やり作り上げてそれを並べ立ててるだけだ。
この映画もそうだが、現代の若者と旧世代をキャラクターとしてぶつけるような設定が、すでにお決まりのパターンだらけなんじゃないか。「インスタで稼ごうとする娘」と「その
ルーガルー人狼を探せのかんそう/最新の映画でクソ古い題材を扱ってやることが世代間ギャップだった
もう題名ですべてを言ってしまったので以下からは読む意味がない。ぼくも書く意味がない。
ぼくは見る映画にどんな少しでも内容ばれをされると許せないので、ジャン・レノのファンに対してだけ必要と思われる内容ばれを今から書く。
それはジャン・レノが痴呆の男を演じてるということだ。あの精悍なジャン・レノはもういないが、それはぼくがまだ半分しか見ていないからかも知れない。
簡単に人が異世界に行く方法として
クソという形容はオットーが特に好んだ表現
こんなに切ない映画があっただろうか。ぼくは映画で泣くよりもYouTubeのオリジナルコンテンツで泣くことの方が圧倒的に多いが、といいますか映画で泣くことがまずないんだがぼくが泣くのは切ないことに対してだということがman called otto(オットーという男)を見てわかった。
そしてこれはオットーとソニア(故)に対する救いの話でもあったはずだ。恐ろしいほどにこの映画にはテーマとして死がつきま
日の名残りと8 Mileを連続して観るとこうなれ
映画『8 Mile』を観たとき、その登場人物たちの中途半端さに苛立ちを覚えた。ヘッダ画像をお有りしています。
彼らは何かを成し遂げたいという願望を持ちながらも行動が伴わず、目標に向かって突き進むことができない。物語は勧善懲悪の構図が明確でなく、結末も発展性に欠けるように感じられた。
しかし、この映画を通じて自分自身の在り方を見つめ直す機会を得たことも事実である。特に、これまでラッパーでありなが