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ルーガルー人狼を探せのかんそう2

世代間ギャップをテーマにすること自体が、もう「一つの古い題材」に見える。現代の設定に古い題材を重ねて「世代間のズレ」とか「断絶」を扱うっていうのはわかりやすいテーマに見えるけど、「対立軸」を無理やり作り上げてそれを並べ立ててるだけだ。

この映画もそうだが、現代の若者と旧世代をキャラクターとしてぶつけるような設定が、すでにお決まりのパターンだらけなんじゃないか。「インスタで稼ごうとする娘」と「その状況に眉をひそめる古い価値観の親」ももはや手垢がつきすぎている。わざとらしく象徴的に描きすぎてる。

映画の中で描かれる「インスタライブを始める娘」がどうしてもキャラクターとして薄っぺらく見えるのはこの役が若者を代表する「象徴」としてしか機能していないからだ。実際の人間が抱く複雑な気持ちや価値観っていうものが感じられず、ただ「スマートフォンネイティブ世代」としての道具に過ぎない。だから観ている側からすると「ああ、またか」と思ってしまう。

スマートフォンやSNSの登場で若い世代の価値観や行動が変わったこと自体は事実だが、それを単純化して「新世代がクールで、古い世代は堅苦しい」みたいに見せて終わるのも浅すぎる。この「キャラクターの矮小化」が続く限り何も響かないんじゃないか。

主人公の娘が世代間の価値観のズレを象徴するキャラクターとして登場すること自体がすでに映画が意図しているメッセージを説明しすぎてるというか、見ている側に委ねる部分がまるでない。

「インスタライブをはじめまーす」と彼女が声高に宣言することで、「ほら、これは現代の若者像ですよ」とわざわざ言っているようなものだ。これでは観客が「感じる」という余地が全くなく、ただ一方向的に示されているに過ぎない。

この映画に登場する女のキャラクターたちの描かれ方がどうしても気になる。「異世界に飛ばされたことで知的に問題を解決するのではなく、ヒステリックに泣きわめく」姿をやたらと強調されるのはどういうことなんだろう。そういうキャラクター描写はどうしてもワンパターンに見えてしまうし、ある種のステレオタイプで描かれているように感じられる。映画の中で女性キャラクターが怒りをぶつけたり感情的に振る舞ったりする場面がたくさんあると、それが「物語を進めるための道具」としての役割を越えていないように思えてくる。

かつ「彼女たちが何に対して怒っているのか」ではなく、ただ「怒りを表現する女性」を記号として配置しているように見える。弁護士という設定を持っているのに、短絡的にしか行動しないみたいな描写も、職業的な知性や論理性が全然活かされていない。

そういったキャラクター設定がただの表面的なアイコンでしかなく、物語の進行のための「装置」になっているわけだ。これで彼女たちが観客に共感されるわけがない。

「異世界の兵士に押し倒された時に暴力だと叫ぶ」みたいなセリフが用意されているのも、わざとらしい。まるでその場面に「フェミニズム論争」を持ち込むことで、何かしらの深いテーマがあるように見せかけているが、それもまた表面的だ。

ここでフェミニズムや女性の人権についての示唆が本当にあるのか?実際には何も掘り下げられていないから、結局この映画が描くのは「フェミニズムが必要以上に声高な現代」のステレオタイプを再生産しているだけだ。

このようなステレオタイプや対立の演出が強調されればされるほど映画が伝えたいとされる「世代間ギャップ」や「異なる価値観の衝突」はどんどん希薄になっていく。

登場人物たちが表面的なやり取りを続けている限りテーマも表面的なまま終わってしまうし、観ている側にとっては「話されている言語は知ってるが、深みがない」という印象だけが残る。

これ系の演出は観客の理解に対する「過剰な説明」であり、観客が映画を深く考察するための「余地」がすべて奪われてしまっている。


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中村風景
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