教会通り・長い長い道と人生の孤独
荻窪駅北口の、青梅街道を渡ると、少し左手に、北に向かって長く長く続いてゆく、古い「商店街」がある。
通称「教会通り」。
長く長く続いていて、たくさんの小さなお店がひしめき合っている、あの、古い「商店街」は、今も、わたしに、さまざまな「とき」と「おもい」とを、想い起こさせてくれる。。
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一九八七年。十月。
わたしが、あの「長い道」を、よく歩いていた日々は、もう三十六年も前になってしまった。
ひとりでも、何度も歩いたし、夫と並んで、手をつないで歩いたりも、してたっけ。。
わたしは、三十一歳になったばかりだった。
期待と不安とが交錯して、こころもからだも不安定で、それでも、「温かい希望」が、わたしを包んでくれていた。
それは、なんだか、「とても優しい日々」だったのだ。
「教会通り」を通り抜けたその先には、「それからの人生」が、まだ、なんにも知らなかったわたしを、微笑みながら待っている、と、ただひたすら純粋に、そう思えていたから、かもしれなかった。
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一九八三年 十月。
わたしは、一九七七年のクリスマス・イヴから、長い間同棲していた「山口さん」と、双方の両親から認めてもらう形で、ようやく、「結婚式」を挙げた。
時代の空気感は、今とは、全くもって、違っていた。
「同棲」は、社会道徳の枠からはみ出して、何の目標も持たずに、ただ無責任に遊んでいるような人間しかやらないこと、と認識されているふしがあったし、「結婚」も、まだまだ、あくまでも「家同士のこと」で、「親に認められないような結婚」は、一般的には、ほとんど、「あり得ないもの」とされていた。
そんななか、わたしたちは、「結婚」という「目標」を明確に掲げて、「親の反対」に抗うための「同棲」を、ずうっと、敢行していたのだ。
「そんなにも反対している親御さんの娘さんとは、結婚しないほうが、良いのではないか。」
と、夫の両親は、わたしたちの結婚には、ずっと、及び腰だった。
どこから探して来たのか、当時、群馬県の榛名山の山中にあった、よく当たると評判の「祈祷師の家」に、夫の両親に連れられて、相談に行かされたことも、あった。
夫の両親は、どうやったら、わたしたちを別れさせることが出来るか、という考えのもと、わたしたちを連れて、相談に行ったのだけれど、そこで、わたしたちを見た「祈祷師」は、
「この二人には、前世因縁があって、前世では、好き同士なのに一緒になれなかった。今世で、また巡り合ったからには、もう、絶対に離れない。別れさせるのは無理ですよ。」
と、言ったのだった。
そんな「お告げ」を聞かされてしまった夫の両親は、わたしたちを別れさせることを、すっかり、諦めて、そこからは、わたしたちの味方になってくれた。
夫が生まれ育った土地は、その場所から「日本神話」が生まれたような、古式ゆかしい地域なものだから、「神さま」の「ご宣託」には、説得力があったのだ。
そのころ、住んでいた「西荻窪」で、わたしが、たまたま知り合っていた「祈祷師」のひとにも、わたしたちは、同じように、
「二人は絶対に結婚します。何故なら、前世では、愛し合いながらも、結婚出来ない身分の二人だったから。それに、かつては、祝子さんは、子どもを持ってはいけない身分だったので、今世で出逢ったからには、子どもを持ちたい、と願うはずです。」
と、言われていた。
二人の祈祷師の意見は見事に一致していたので、やがて、わたしの両親も、根負けした。
わたしたちは、結局、「粘り勝ち」をしたのだった。
なんて、非科学的なおはなしだろう、と今なら思うけれど、あのころの社会の空気感を物語る「逸話」では、ある。
そんなわけで、わたしたちは、「夫」の実家近くで、「心温まる結婚式」を挙げさせてもらい、ようやく「入籍」した。
知り合ってから、すでに、六年半もの月日が、経っていた。。
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ようやく「入籍」出来たわたしたちだったけれど、それから半年後に、わたしが、最初の流産をした後に、夫が、一時は生死の境を彷徨うほどの、重い内臓の病気に罹ってしまった。
半年も入院したあと、体力が回復するまで、夫は、一年間も、自宅療養を余儀なくされたのだ。
ようやく回復して、仕事に復帰したのもつかの間、今度は、わたしが、二度目の流産をした。
次々と襲ってくるネガティブな出来事に、わたしたちは、「新婚のしあわせ」とは、まるで、ほど遠い暮らしを、強いられていた。
おそらく、今なら、「不育症」と診断されるのだろうけれど、その当時は、そんな言葉さえも、まだ、無かった。
「不妊治療」なども無い時代なので、わたしたちは、御利益があるという「神社」のことを聞けば、そこに御参りに行ってみたり、からだを温めるための「鍼治療」に通ったり、「漢方薬」を飲んでみたり、「自然食」を使った「食事療法」に凝ってみたり、と、さまざまな非科学的な方法で、乗り越えようと、頑張っていた。
そんなおり、三度目の妊娠が、発覚した。
「入籍」してから、すでに、四年の月日が流れていた。
そのころのわたしたちは、「西荻窪」からは、すでに引っ越していて、緑豊かな「小金井市」に、住んでいた。駅前のまわりは、まだ、畑だらけだった。
家の近所にあった、小さな産婦人科の、親切な先生が、二度目の妊娠のころから、わたしを診てくれていたのだけれど、三度目の妊娠の診断をしてくれたときには、荻窪の「東京衛生病院」を、わたしたちに、紹介してくれた。
「産婦人科の技術がとても高い病院だから、あそこなら、あなたを流産させないで、産ませてくれるかもしれない。」
そう、言って、親切なその先生は、「東京衛生病院」への「紹介状」を、書いてくれたのだ。
それは、まさに、「三度目の正直」だった。
わたしたちは、中央線に乗って「荻窪」まで行き、教えられた通りに、「教会通り」を、探した。
そうして、あの長い長い商店街を抜けて、「東京衛生病院」の「産婦人科」を、訪ねたのだった。
「教会通り」という名前を、聞いたのは、そのときが、はじめて、だった。
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「心配をしないこと、ですよ。」
初診のあと、主治医の先生は、わたしを見て、にこやかに、そう、言った。
心配すると、緊張するので、血管が、萎縮し、酸素が行き渡りにくくなる、そうすると、赤ちゃんに、良くない影響を与えるのだ、と、その先生は教えてくれた。
ーーリラックス、リラックス。。
そう、唱えながら、わたしたちは、また、「教会通り」を抜けて、荻窪駅から中央線に乗って、「小金井市」の自宅に、帰った。
その日から、わたしの、「教会通り」を通り抜ける「衛生病院通い」は、始まった。
「教会通り」には、さまざまな種類のお店が混在していて、見るだけでも飽きなかったし、実際に、お買い物をするのも、楽しかった。
ちょうどそのころ、少し前に単行本で出版されていた、「井伏鱒二」の「荻窪風土記」が、文庫化されて、妊婦のわたしにも、持ちやすく、読みやすくなった。
「荻窪」に通い出したわたしは、なんとなく気になって、その文庫本を買って、読んでみたのだった。
すると、そこには、驚くべきことが書かれていた。
大好きだった「太宰治」が、昭和初期に、「教会通り」近辺に下宿をしていて、普通に、「教会通り」を歩いていた、というのだ。。
「太宰治」は、「井伏鱒二」を慕って、同じ「荻窪」に移り住んだということまでは、何かで読んで、知っていたのだけれど、そこが「教会通り」だったとまでは、わたしは、それまで、知らなかったのだ。
「荻窪風土記」によれば、その当時は、まだ、「教会通り」ではなくて、近くにある「弁天池」に因んで、「弁天通り」と呼ばれていたらしい。
ーー太宰治も、この道を歩いていたなんて。。
偶然にも、「教会通り」は、「太宰治」の「ゆかりの地」だったのだ。
わたしは、俄然、勇気づけられた。
なんだか、とても嬉しくなったことを、憶えている。
それから、「教会通り」は、わたしにとって、「特別な道」に、なったのだった。
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まだ、「西荻窪」で、夫と「同棲」していたころ、「太宰治」の「人間失格」や、「斜陽」は、わたしにとって、まさに「バイブル」だった。
「太宰治」が描く「個人」と、いわゆる「世間」や正し過ぎる「家」との葛藤や、切実過ぎる「承認欲求」などは、そのまま、そのころのわたしにとっても、大きなテーマだったからだ。
それに、「太宰治」は、抜群に、文章が上手くて、文章構成が、とても美しい。
ーーどう転んでも、こんなに上手い文章は、書けそうにない。
わたしは、いつも、そう思いながら、読んでいた。そうして、
ーー「太宰治」は、結局、「死」を選んでしまったけれども、「死なず」に「生きる」ために、彼には、何が足りなかったのだろうか。。
その作品に触れながら、わたしは、何度か、そんなことを、考えたりも、していたのだ。
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一九八八年 五月。
「東京衛生病院」の一室で、わたしたちの長女は、元気な産声を上げた。
つわりが酷すぎて、水も飲めなくなり、からだが衰弱し過ぎたために、「点滴漬けの入院」を余儀なくされたり、まだわずか七ヶ月半なのに、生まれそうになってしまい、当時の医療水準では、そこで生まれてしまったら、決して助からないとの判断で、またまた、点滴漬けで抑え込み、出産間際まで入院して、「寝たきり」でいなければいけなくなったり、と、いろいろに、大変な経過ではあったけれど、「東京衛生病院」は、「わたしたちと長女」を、ちゃんと、出会わせてくれた。
生まれるまでの十ヶ月あまりのうち、結局のところ、通算すると、およそ半分くらいの期間、わたしは、「東京衛生病院」に入院していたのだけれど、それでも、三度目の子どもは、無事に、この世に生まれることが、出来た。
地元の、親切な、産婦人科の先生の「機転」のおかげで、わたしは、「母親」になれたのだった。
そのころのわたしたちは、すでに、出会ってから、もう、十一年も、経っていた。
「結婚」をして、「子ども」を持つことなんて、あのころは、まだ、ほとんどのひとたちにとって、「しごく簡単なこと」のはずだった。
たいていのひとは、出会って、遅くとも一年か二年のうちには結婚をして、そのうち、ごく自然に、子どもを持っていたような時代だったのに、わたしたちは、たったそれだけのことに、十一年もの月日を費やしてしまっていた。。
自分が送る人生は、あんまり、ありきたりものではないのだということを、ほんとうは、いい加減、自覚すべきだったのかも、しれない。
でも、わたしは、そんなことには、全く、気づいても、いなかった。
わたしは、ようやく「母親」になれたことを、ただ、喜んで、そうして、ただ、単純に、楽しんで、暮らしていたのだ。
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長女が生まれてからも、半年あまりは、月に一度ほど、わたしは、長女を抱っこして、「教会通り」を抜け、「東京衛生病院」に通った。「赤ちゃん健診」と「産後の健診」があったからだ。
「元気に育ってますよ。大丈夫ですよ。お母さん、頑張って下さいね。」
などと、親切なお医者さんや優しい看護婦さんたちに励まされ、安心して、また、中央線に乗っては、「小金井市」まで帰るのだった。
やがて、生後半年を過ぎると、長女の健診は、地元の小児科でも良くなったので、わたしは、もう、「荻窪」に通うこともなくなった。
長女が二歳近くになったころ、わたしたちは、住み慣れた中央線沿いを離れ、荒川を越え、「埼玉県民」になった。
中央線沿いの暮らしは、大好きだったのだけれど、なにぶん、東京は、地価が高過ぎて、家を持つことなど、およそ、出来そうになかったから、だった。
住み慣れた界隈を離れて、荒川を越えるときは、悲しくて、この引越しは、間違っていたのではないかと、少し心配になったものだ。
けれども、それは、杞憂だった。
埼玉県も、暮らしやすくて、「住めば都」だった。引越した先で、今度は、さほど苦労もせずに、次女も生まれ、わたしの家族は、四人になった。
埼玉県に長く暮らすうちに、中央線沿いに暮らしていた記憶は、わたしのなかでは、「若かった時代のこと」となり、しだいに、薄れていったのだった。
けれども、「教会通り」で「母親」になれたわたしを、その後は、全く普通ではない「子育て」が、待っていた。
「ありきたりではない人生」は、手ぐすねを引いて、わたしに襲いかかって来て、やがて、わたしの「無邪気さ」を、根こそぎ奪い取って行くことに、なるのだった。
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ほんとうに久しぶりに、再び、「教会通り」という言葉を、耳にしたのは、いつだったのだろう。もう、あまり、はっきりと、記憶してはいない。。
それでも、おそらくは、二〇〇三年の終わりから二〇〇四年の初めあたりだったのではないだろうか。。
ほとんど忘れかけていた、その名称を、再び聞いたのは、日常生活とはかけ離れた、どこかの、ライブハウスで歌われた「うた」の「歌詞」から、だったからだ。
わたしが、かつて、「教会通り」に通っていたころから、もう、十五年以上の月日が流れていた。
ーー「教会通り」ですって?
思わず、歌っているそのひとを、顔を上げて、見つめてしまったほど、わたしは、その名称の懐かしい響きに、驚いていた。
ーーこのひとも、「教会通り」を歩いていたなんて。。
わたしは、ただ、驚いて、歌うそのひとの顔を、見ていた。
「下北沢に来て下さい。」
という、渋谷の大きなライブハウスの壇上から呼びかけられた、ボーカルの「彼」の、その言葉に、過剰に反応して、「下北沢」に通い始め、小さなライブハウスで演奏される、そのバンドのライブに、足繁く通い始めたころ、のことだ。
「教会通り」での、自身の思い出を歌う、その「うた」は、そのころ、ライブで発表され、歌われはじめたもの、と記憶している。
バンドのファンのあいだで、今も人気のある、「素敵」な「名曲」だ。
それでも、せつなく、もどかしく、自身の叶わなかった「恋の思い出」を嘆くそのうたは、「人生の儘ならなさ」に喘いでいた、そのころのわたしのこころを、えぐって来て止まなかったのだった。
「教会通り」に通っていたころの、まだ、何も知らず、無邪気に若かった、十五年以上前の自分は、ひとと同じように結婚をし、ひとと同じように子どもを持てた喜びに、ただただ浸っていた。
そんな風に暮らしたなら、「孤独」に掴まることなんか、絶対に無いのだ、と、根拠もなく、信じていたからだ。
でも、そんな、「無邪気な自分」は、そのころには、もう、どこにも居なかった。
日々通い詰めるライブハウスのなかで、家族を持ったことでも、解消することが無かった、自分だけが抱える「孤独」を、そのころのわたしは、突きつけられはじめていたから、だった。
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いったい、「孤独」とは、なんであろうか。。
「独りぼっち」の、どうしょうもない「孤独感」は、自分以外の、ほかの誰にも、「理解されること」なんて、きっと、ない。
何故なら、「孤独」というものは、自分という「存在のありかた」と直結していて、ひとりひとり、かたちが、違っているから、どんなに愛するひととでも、共有することなんか、出来はしないからだ。
世界に、たったひとりで、対峙している感覚を、一度でも感じてしまったなら、それは、きっと、もう、決して拭い去ることなんて、できないものなんだろうと、わたしは、思う。
たとえ、愛するひとと一緒に居ても、愛すべき子どもと笑っていたって、それは、無くなったりは、しないのだ。
ただ、誰もが、大なり小なりは感じるであろう「孤独」であっても、たぶん、その「大きさ」は、ひとによって、ずいぶんと、違っているはずだ。
それは、おそらく、「自我の強さ」や「感受性の強さ」と比例しているのではないか、と、わたしは、考えている。
ひとと語り合ったり、笑い合ったりすることで、紛れ、誤魔化されてしまう程度の「孤独の大きさ」のひとは、一定数居て、自己が潰されてしまうほどの「孤独」は、抱えずに済んでいるのではないか、とも、思うのだ。
それでも、それは、「感受性の強さ」と関係しているので、そのひとが、「感じる大きさ」が「全て」、では、ある。
もしも、「感受性」も、「自我の強さ」も、MAXだった場合、抱える「孤独」もMAXになってしまうから、それは、もう、大変な威力で、「自己」に、迫って来ることに、なるだろう。
さらに、そこに、「自己」が抱えている「美学」までもが、加わって来たとしたならば、その「苦しさ」は、きっと、MAXを、優に超えてしまう。。
そんな、こぼれて落ちて来るほどの「苦しみ」は、どこに向かうのか。。
わたしは、それこそが、「表現」を生む「源泉」となるのだろう、と、思っている。
けれども、「感受性」と「自我」と「美学」とは、その折り合いのつけかたが、とても、難しくて、着地のしかたには、工夫が要るのだ。
扱いかたをひとつ間違うと、それらは、「生きる力」を削ぐかのように、「個人の生き様」を「攻撃」さえ、して来るからだ。
さらに、ひとには、それだけでは済まされない「社会性」をも、生きるうえで、要求されて来るのだから、落としどころは、さらに、複雑になる。。
「感受性」と「自我」と「美学」と「社会性」。
これらのバランスを、自分だけの「調合のしかた」で、折り合いをつけることが出来れば、おそらく、「生き抜く」方法は、自ずと「自分だけに」解ってくるのだろう、と、わたしは、思う。
「孤独」は、ほんとうは、「人間」にとって、「表現」を生み出すために、自然とか、神とか、から与えられた、「宝物」なはず、なのだから。
長く生きて来たわたしは、今は、そんなふうに、考えている、
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「長い長い道」は、「人生」を、想像させる。
若いころに観た、フェデリコ・フェリーニの「道」という映画は、今でも、好きな映画のひとつだけれど、貧しい旅芸人のもとに、やはり、貧しさのために、売られてしまった、若い、知的に障害のある女の子が辿ってゆく、哀しい人生のおはなしだ。
貧しく、無知で、粗暴な、その日暮らしの旅芸人と暮らす、貧しい、知的に障害のある女の子、という設定は、もう、これ以上は無いだろうというほど、社会的に「弱い存在」を、表している。
その人間たちが、織りなしてゆく人間模様は、やはり、これ以上は無いだろうというほどの、人間の「孤独」を、観るものに、突きつけて、来るのだった。
極端なほどの設定は、出演者たちが抱える「孤独」を、分かりやすくしていて、それによって、人間が、根源的に持つ、絶対的な「孤独」を、映画として「表現」することに、見事に、成功していた。
フェデリコ・フェリーニは、さすがだな、と思わせる代表作だ。
「道」は、やはり、この映画でも、「人生」を表す、アイコンなのだった。
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「長い長い道」の「教会通り」は、あのころの、若いわたしにとって、無邪気に、「幸せな人生」を、想像させてくれるものだった。
荻窪駅から、「教会通り」に入ってゆくと、小さなお店が、たくさんひしめき合っていて、美味しい食べ物も売っているし、おしゃれなお店だって、あるから、見ているだけでも、充分に、楽しめる。
だから、その道にあるたくさんのお店は、人生の、さまざまな小さな出来事や、喜びや悲しみといったのものを、わたしに、連想させるのだった。
そうして、商店街を抜けると、そこには、「東京衛生病院」と「天沼教会」とが、待ち構えているから、
ーー「教会通り」は、まるで、天国まで繋がってゆく、「人生の道」のようだ。
と、若いころのわたしは、思ったり、した。
昭和初期には、「教会通り」を、「太宰治」だけではなく、たくさんの小説家や詩人、それに、画家も、歩いていた。
若いわたしも、ひとりで歩いたり、夫と歩いたり、さらには、生まれたばかりの長女を、抱っこして歩いたり、もしていた。
「教会通り」のことを「うた」にした「彼」も、きっと、「恋人」と歩いていたのだろう。
「残像」は、まだ、みんな、残っているかも、しれない。
絶対的な「孤独」を感じたまま、「感受性」と「自我」と「美学」と「社会性」との「折り合いのつけかたを探る」という「課題」と、わたしは、これからも、向き合ってゆこうと思う。
そうしたら、きっと、「死にたい」とか思わずに「生きてゆけるかな」と、思うのだ。
そうして、それらを少しずつ、「表現」というかたちに、こぼしてゆけたら、きっと、わたしは、死ぬまで、退屈なんかしないだろう。
長い長い道の、「教会通り」のことを、ときには、思い出したり、しながら。。
※参考文献
「荻窪風土記」 井伏鱒二 新潮文庫 昭和六十二年 四月二十五日発行
「人間太宰治」 山岸外史 筑摩書房 昭和五十六年 四月三十日 初版第二十刷発行
※「東京衛生病院」は、二〇十九年十二月一日より、「東京衛生アドベンチスト病院」と名称変更していますが、わたしが通っていたころは、「東京衛生病院」でしたので、名称は、古いままで、使用させて頂きました。
※冒頭の「画像」は、
荻窪駅北口「鐘の鳴る街教会通り商店街公式ホームページ」より転載させていただきました。