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帰国子女受け入れ校である元所属(高校基督教大学高等学校、通称ICU高校、ICUハイ、ICUHS)や「人権」や「多様性」を謳っているはずの国際基督教大学(通称ICU)法人における感染対策+日本語教育にかかるパワハラ追い出しとハラスメント対策の機能不全について全体的なことはFrom middle of nowhereへ。
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いよいよ筆を置く時が近づいてきた。"_23"も消化試合も終わる。
このアカウントで記載してきたことは、以下の当事者の視点を含み、分析を含め、そのフィールドに関わろうとする方々や当事者ご自身に参考になる点がある可能性がある。
機能不全家庭、アダルトチルドレン、虐待、精神的虐待、教育虐待、ネグレクト、DV(家庭内暴力)、後遺症、PTSD、トラウマ、フラッシュバック、複雑性PTSD、摂食障害、不眠、離人症、健忘、自傷、呼吸困難、セルフネグレクト、絶対音感、日本語教育(継承語、第二言語、外国語)、継承語教育、英語教育(外国語)、帰国子女教育、外国人児童生徒教育、非正規雇用、非常勤講師、帰国子女受け入れ校、中等教育、高等学校(高校)、パワハラ、自死
ただし、筆者は育成環境と本人の特性の組み合わせにおける様々な外れ値の掛け合わせの積み重ねから、非常にわかりにくいー犯罪非行に走る等分かりやすくグレることも薬や男性依存に陥りメンヘラ化することもなく(自他共に)過食など自身に留まる自傷は否定しないものの喫煙暴力を伴うアル中をはじめ他害(虐待ハラスメントをはじめとするあらゆるマルトリートメント)及び論理や理性の否定を嫌悪し、鬱になることすらできなかった一方、全てに絶望し誰も何も信じることができず死は隣り合わせで、しかしそれすら覆い隠し自分がなすべき役割を演じそれなりにやれてしまう状態できてしまった(コロナとパワハラで日常的に危険や恐怖に晒されるようになりPTSDやフラッシュバックの再発、複雑性PTSDの悪化が起こるまでは)。
当てはまらないもの
生きづらさ、人間関係の悩み、(パワハラを除く)いじめ、児童養護施設(に保護されるような分かりやすい形での虐待及び家、親族の問題)、貧困、登校拒否、不登校、発達障害、鬱、(最終的な手段の一部以外の)OD、リストカット(依存)、男性依存、酒煙草(向精神薬含む)薬依存、ギャンブル依存等広範な依存症及び人間関係の共依存、孤独、精神科・カウンセリング・向精神薬(いずれも利用歴無し)、入院、ダイエット、自殺未遂、非行、犯罪、行為としての反社会性
つけようと思えば診断がつくのではという感じのもの
摂食障害、不眠症、不安障害、適応障害、愛着障害(回避性)
なお、一般によく用いられるようになった「毒親」や「虐待サバイバー」という呼称は好まないし筆者には合致しない。筆者の場合、適切でないのは親のみではなく、加害は多方面から複合的に様々な形で行われてきたこと、筆者は「サバイバー」ではなかったことが理由である。
親と言えば、もしこんな方に育てられていたら違っていたのかなと思い描いたりしたのは、ノッポさん、森山良子さん、大竹しのぶさん、ヤマザキマリさんのお母様。アーティスト系の方に惹かれるみたいね。特に女性はちょっとぶっ飛んでいる自由人風の方が多い。ガチガチの規制や抑圧が強かったからかな。ノッポさんは、真っ直ぐ受け止めてくれるっていうところかな。亡くなった後に生前のインタビューを聞いてこんな方だったのかとびっくりした。
マイノリティーとして非定型な部分が多いので、直接的に参考になる部分は少ないかもしれない。けれども、このような「見えにくい」「分かりにくい」状態やそれに付随する(所謂「障害」にはカテゴライズされない)苦痛や困難、その感覚は、今後、コロナを中心とするマルチデミックで、じわじわ蝕まれ積算していく長期障害(後遺症)患者が増えていく中では、部分的に重なるところがあるのではと思う。
本当は、絶望を抱えていたとしても状況が変わって道ができてって、光への道筋のようなものが残せればなって思っていたんだけど、残念ながらそうはならなかったので、
何が絶望を生んだのか(絶望させないためには何を避ければいいのか)、
絶望を抱えていたとしても、どういう条件下であればそれを抑えていられたか(何が絶望を緩和させ得るか)
等で、参考になるところがあればと思う。
筆者の認知特性としてはまず非常に強いメタ認知と一般より広く深い想定、斜めで緩やかな関連を捉える発想連想が挙げられると思う。メタ認知については離人症や解離的な状態とも近く、想定を広く取り、一般的には切り捨てられ見過ごされがちな所の関連を見出す傾向は、そのようにしてリスクを察知し身を守るための方策の体得である可能性が高いので、これらは育成歴、重度のアダルトチルドレンであることとの関連があるように思われる。
斜め発想とリスク回避については例えばこんな感じ。
グルテンがアレルギーになることがある、グルテンが発達障害を悪化させるという説がある、グルテンを多く含む小麦製品は日本の場合は北米からの輸入が特に多い、何故かアメリカと日本は発達障害率が高い→【小麦、グルテンが悪さをしている可能性もあるけれども北米で乾燥剤として麦にポストハーベストされるラウンドアップが諸々に関係している可能性もある】
●リスク回避の方法とその強度設定
小麦は基本的に自炊の「食事」の素材にはしない。ただし、パスタの高保存性は備蓄向きなので、備蓄品としては選択する。そしてその場合は欧州産のもの(not 北米)、価格との兼ね合いにもなるがなるべくオーガニックのものを選択する(ラウンドアップ避け)。
そもそも精製された穀物は栄養価的に貧弱でほぼカロリー源にしかならず、栄養を摂取するための食事というよりは菓子枠に近い。よって、小麦を積極的に購入摂取するわけではないが、私はアレルギー体質でも発達障害でもないので、買ってしまった備蓄パスタ等は無駄にしないように食べる(だいたい期限近にクッキーやケーキなどのスイーツにして消化している)。
イタリア料理、Pizzaやパスタは好きだが、自分でそれなりの味のものを作って食べるよりはプロによりレベルの高いものをお願いしたいので、外食で良い店がある場合には「嗜好品」枠として栄養価は気にせずおいしさのために小麦のものも積極的に食べる(ただし産地は気にする)。とはいえもう外食はできないんだけど。
同様に、菓子類にはほぼ小麦が使われているが、この場合も「嗜好品」枠で栄養価は気にせず食べる。逆に言えば菓子類だけで小麦を摂取し過ぎているところがあるので、やはり自炊の材料としてはなるべく減らすように心がける。
自炊で麦を選択する場合は、国内産の大麦(グルテンが少なく輸入北米産に多いラウンドアップポストハーベストリスクが低い)やオーガニックのオーツ麦(やはりラウンドアップ避けと栄養面から)を優先する。
実にめんどくさいでしょ、、オレンジ政党の人達みたいに全否定するわけじゃないんだよ。こだわるところはあるんだけど、抜くところもある。そしてその条件は自分で選択管理している(おそらくこの辺が発達障害的なこだわりとの違いでもある)。ちなみに同じようなことは白米(栄養価が貧弱)や牛乳(発酵を経ていないカゼイン)白砂糖(甘さのためだけの糖質)等でも起きる。
あと、自分の選択を他人に強いることもしない。自分は自分、人は人だから、反ワクみたいにワクチン接種者を批判したり馬鹿にしたり、ワクチン接種を行う医療機関医療従事者を妨害したりするのは愚行だと考える。諸々の選択は当人がメリットデメリットを考慮し行うもので特にワクチンは説明書に署名の上、個人の意思判断で接種するのだから。私は(効果と安定性が高い)私にとって必要なワクチンは打つ(大学以降に打ったのは破傷風ワクチン、MRワクチン)。しかし、私にとって不必要だったりデメリットの大きかったりすることを他人に強要される場合には全力で逃げる。
諸々のリスクはかなり気にするほうだと思う。
放射能、農薬、PFAS、食品添加物、遺伝子組み換え、コスメ等での合成やアルコール成分、紫外線(日焼け)、電磁波Wi-Fi5Gマイクロ波、薬害、公害、個人情報etc.
コスメに関しては合成成分を気にするから基本オーガニックだし(よく使うのはWELEDAとニールズヤード)商品選択時に成分表は確認する。乳液には合成界面活性剤が入っているから基本使わないし、あと洗浄系も液体ではなく固形石鹸を選択している。シャンプーも含めてね(固形石鹸をネットで泡立てて洗髪しクエン酸で中和の形。切り替え時にはガビガビになったけど頭髪頭皮が慣れればこれで全然問題無い)。顔や頭はある程度保湿があったほうがいいから(特に冬は)オイル主体のアレッポの石鹸、マルセイユ石鹸あたりをよく使った。夏場やボディはマジックソープ、マダムヘンの石鹸、シャボン玉石鹸のベビー用、牛乳せっけんの無添加が多い。
ただ、(もう行かないけど)旅行等の外出時には利便性のためにWELEDAやニールズヤード、John Master's等のシャンプートリートメントボディーソープを持っていくし、その他の時にもサンプルやプレゼントで頂いたりした合成成分のコスメは使う(私はアレルギーがあるわけではないから)。
・・・こうして見るとオレンジ政党や反マスクの陰謀論カルトノーガード達と重なる部分もわりとあるんだけど、実際は真逆なんだよね、興味深いことに。冷めた現実主義者なのでスピリチュアル系(→カルト)に全く反応しないというのは大きいかも。筋金入りの懐疑主義者が批判的思考を実装した結果かな。根拠や理のない「お気持ち」「雰囲気」になびかないし裏をとったり検証したりして筋が通らないものには絶対に乗らない。
ちなみにWELEDAは実は人智学のシュタイナーにルーツがある。人智学もある意味オカルト的な要素もあるんだけど、少ないともカルトではない(オカルト?と言えば、Xファイルが好きだったのもあるな。でもそれくらい。魔女とか魔法、占星術なんかにも興味はあるけど、、これは何枠?)。教育学的観点からすれば、シュタイナーといえば「シュタイナー教育」の祖。「シュタイナー教育」は、国内だとあまり馴染みがないかもしれないんだけど、私は海外在住歴が長い子達を受け持っていたので、経験してきている子がちらほらいた。だいたい観点や文章等に光るところがあって、「ん?」と思って聞いてみるとシュタイナー教育を受けていた、という感じ。面白いよね。
過去には「ロハス」とか「ノマド」も、重なる部分はありつつもその界隈の人々と自分は根本的に違うなと思っていたな。今だと"SDGs"や"Well being"も本質的な理念には共感しているものの、それを主張している人の表出内容や体現の方向性に???となるところがままある。「脱炭素」も原発を動かすための方便に使われるところが多く警戒している。
そう言えば、対放射能でチェックしていたアカウントうち半分以上がヤバめのノーガードになっ(て非常にがっかりし)たんだけど、Angamaさん等、残りの「リスクをふまえてきちんと対策する」人は今でも貴重な情報源になっているし、その他の価値観等でも近いところがありそう。川上先生も、昔からチェックしていた方ではなかったけれど、非常に共感するところが多い。職場でも、元々関係が近かったのは(パンデミック以降)しっかり感染対策をする(ようになった)方だった。
やっぱりコロナへの対応は「その人の本質」を現すのだと思う。また、何度も書いたけど、マスク着用有無、着用の仕方はその人のウイルスや感染対策、他者への認識をほぼ表出している。
どんなに取り繕っていようと、感染対策放棄は「自分が全て」の暴力性と反知性を露呈する。それが顕在化する前から、私はどこかで何かを捉えていたんだろうね。
あと、アレルギーとは違うんだけど受け付けなくなったものは、特に肉・魚・卵などのタンパク質系の生もの。これらは幼少期にはむしろ好物(で刺身もトロ等をばくばく食べていたし、卵かけご飯や半熟ゆで卵や目玉焼きも好き)だったはずなんだけど、10歳前後から気持ち悪く感じるようになり、ダメになった。この時期と前後してやや気になる記憶の断片があるようなんだけれども、結局最後まで復元されなかったので、これは戻してはいけないと規制がかかっているのだろうから自ら掘りにいかないことにしている。
葉っぱ類や果物なんかは生でも食べるんだけど、自分で調理する際はだいたい火を通してしまっている。鴎外ほど徹底してはいないし、細菌リスクを気にしてというよりも(それも無いことは無いけど)好みの問題という気がしている。
好き嫌いはちょくちょくあるとは思うけど、多分一番大きいのは生で食べるウリ科のもの。私は幼少期からキュウリとスイカが嫌いで、長い間それは別々の事象だと捉えていたんだけど、栽培をするようになってから共通項としてウリ科があることに気付いて目から鱗だった。そう考えるとメロンも食べられなくはないけど好みではなく、自分で買ったことは無かった。やはり知識はあったほうが見えるものが格段に増える。ウリ科でもカボチャやスープに入っているズッキーニ、チャンプルーのゴーヤ等は好き。おそらくこれらは生で食べずに火を通していて青臭さが飛んでいるからではないかと思っている。
もう一つ、栽培を始めて気付いたのはイネ科の好みについて。上述の通り、私は糖質制限というより貧弱な栄養素&カロリーのみで「(私にとっては栄養補給の位置付けも大きい)食事として」摂取する意義が低いから、精製された米と小麦は「食事として」は自宅でほぼ摂取しない生活をしている(もう行かないけど京都で外食の場合にはおいしく頂くし、菓子類では当然食べる。元々栄養ではなく味のための「嗜好品枠」だから)。
日本人なんだから「米」だろと思われるだろうけど、生活に白米が無くても全く問題は無い。いわゆる主食的な位置付けとしては、ナッツや豆類等カロリーと共に他の栄養素も補給できるものを摂取しているし、菓子類も含めれば充分過ぎるほどのカロリー、米(和菓子類から)、小麦(洋菓子類から)を摂取している。
つやつやふっくらの炊き立てご飯が美味しいと感じることはあるが、今の食生活(もう7年以上になるかな)をしていてもそれが恋しくなることはないし、そう言えば海外へ行っても「米食べたい」と思うことは無かった。要するに愛着が無いのだ。
これとは別に、私は幼少期からトウモロコシがイマイチで、夏場などに出てくれば食べるんだけど、(きれいに粒を外せない、歯に挟まるし)進んで食べたいとは思わないし、コーンスープは特に(飲めるんだけど、積極的には)飲みたくないものだった。
実はトウモロコシはイネ科なんだよね。そして米も麦もイネ科。社会的位置付けとは別に、私にとって、イネ科は嗜好や依存度が低いものだったんだと気付いた時には長年のモヤモヤがストンと落ちる感じだった。やっぱり「知る」って面白い。
「科」で言うと、ムラがあるのがマメ科で、私はコーヒーをほぼ飲まない。昔は飲むとお腹が痛くなった気がする。けど、大人になってから仕事で出されたりしたものを飲んでもわりと平気っぽいことがわかった。ものの主体的に飲もうと思うことはほとんど無く、自宅で飲むためのコーヒーを購入したことは一度も無い(私はお茶派の特に紅茶好きなので家ではほぼお茶を飲んでいる)。例外は、くるりのアルバム「ワルツを踊れ」を聴いて飛んで行ったオーストリアで、歌に出てきた「カフェハヴェルカ」で、歌にあったように真夜中にコーヒーを「ギューっと飲み干す」というのをしてみたくて滞在中に二度通ったこと(怯えながら終電で宿に戻った)。あとは富士吉田でよく通ったカフェ月光のケーキセットでもコーヒーを選択していた(私は食の質にはこだわるので、コーヒー推しの店で紅茶を頼むというのは「違う」と感じる。アレルギーでもないしそんなにお腹も痛くならなそうだとわかったので、コーヒー自慢の店ではコーヒーを頼む。ただし、理由が無い場合にコーヒーの店を選ぶことは無く、主体的に選択するのはほぼ紅茶の店である)。
一方、ここのお菓子記録でも出ていると思うけど、私はチョコホリックと言っても過言ではないくらいのチョコレート好き。特に理由が無くても買って食べているし、ストレスが溜まっている時には消費量が激増する(チョコだけで1日3000kcalとかね。流石にこのレベルになるとまずかったなと少し反省する)。
その他、小豆や和菓子も好きだし(そう言えば子どもの頃はいずれもイマイチだったけど家を出てから食べられるようになったんだよな)、米小麦の代替の主食的位置付けとしても日常的に使用するので、ひよこ豆、レンズ豆、緑豆、大豆、黒豆、小豆、大正金時をはじめとして非常に多くの豆類の在庫がある。
相性がいいのは「バラ科」かな。イチゴ、ワイルドストロベリー、ラズベリー、ブラックベリー、りんご、梅、杏、サンザシをはじめとしてバラ科の果実はほぼ好物。開墾していた畑では土壌も合っていたのか育てるのもうまくいって、イチゴやワイルドストロベリーは勿論、実生の花梨やビワも元気に伸びていたし、クサイチゴや鳥の落とし物から生え始めたナワシロイチゴも手を傷だらけにしながら収穫していた。今どうなっているのかはわからない。(草達お世話できなくてごめん。一緒にいたかった。)
上記のように、私にはアレルギーは基本無いんだけど、日光を浴び過ぎると具合が悪くなるし赤く腫れる。これはおそらく色素の問題かな。幼少期は特に髪の毛が茶色がかっていて、クラスメイトに「野鳥さんは金髪だから髪の毛ちょうだい」と言われたこともあった。今思うと結構気持ち悪い。こんな感じなので日焼け止めは欠かせないし夏場でも常に長袖。夏のスイス旅行中に長袖で歩いていたら現地のお姉さんに「あなた何でそんな長袖でいるの?こんなに良いお天気なのに!」と突然話しかけられたこともあったけど(あっちはとにかく日焼けしたがるからね。そのせいで歳とるとものすごいガビガビ肌になっている)、むしろ「こんなに良いお天気だから長袖」なんだよなあと思った。夏フェス参加時にSPF50で強い日焼け止めを塗りまくったのに赤く焼けただれてしばらく大変だったこともあるし、とにかく無駄に苦痛を味わいたくないので私は紫外線対策をする。
話を戻すと、絶対音感や聴力との関連もありそうな、なんとなく海馬のあたりに何かがあるのではないかという記憶の混乱?(トラウマに関する時期時間の記憶が飛ぶ傾向がある一方、抑圧されてきた記憶もきっかけがあり開くと比較的鮮明に蘇ることが多い)、3Dの空間認識の歪みと、これらとの直接の関連は不明であるものの、友人に「妖怪アンテナ」と呼ばれたような、ある意味第六感的な(主として)危機察知能力のようなものがあるのも筆者の認知的特徴ではないかと思う。このあたりのことは、本人にとっても謎なことが多いので「謎感覚」として、記憶と共に整理を試みてきたのだが、間に合わなかった。
Angamaさんの最新の分析
https://fukushimadiaryoffi.wixsite.com/angamareport/post/%E3%80%8C%E7%9B%B4%E6%84%9F%E5%BC%B7%E5%8C%96%E3%80%8D%E3%83%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%A8%E7%A5%9E%E7%B5%8C%E6%96%B0%E7%94%9F%EF%BC%88%E7%84%A1%E6%96%99%E5%8F%B7%E5%A4%96%EF%BC%89
の中にもヒントがあるような気がしているんだけれども、どうなんだろうね。
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コロナ後遺症関係の研究知見で少し見えてきたものがあったので、「終わり」までの雑記ページに書いた。9月後半の部分にある。
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脳や認知についてはもう少し早くから勉強をしておけばよかったな。理論的な基礎が無いから本当に主観ベースなんだけど、私はわりと極端な脳をしているのではと推測している。ものすごく右脳的な部分とものすごく左脳的な部分が点在している感覚がある。
おそらく先天的な部分では右脳的な部分が強くて元々は直感的に動くことも多い気がするんだけど、特に小学終わりの(父親の)借金→離婚→移住とピアノへの怒りが重なり、中学以降は父方要素の封印的な感じで、左脳的な部分が強くなってきたように思う。あの一族の中にはどこにも(鳥以外)味方がいなくて、自分で何とかしなければいけないという必然性から来るところも大きかったはず。父親のように遊び惚けていたら生きていけないのは明らかだったし、そのような者への嫌悪も非常に強かった。無条件に甘やかされ続ける弟が吐くほど嫌だったのもそのあたりが絡んでいるのかもしれない(勿論、自分にのみ向けられる強い規制や抑圧や極端に不平等な処遇等の問題も大きいだろう)。
その他特徴としては、おそらく言語処理速度は速く、読むことに対する適性はあると思うんだけど、言語教育に関わってきたものの、実は、文法があまり好きではない、んだよね(必然性があるから教えるのに必要なことは学んだけど)。。私の頭は「言語学」の頭ではないな、とよく思っていた。あと、数字やデータを読むのも好きなんだけど、私は計算ができない。中学時代の5教科で5が取れないことがあったのは数学だし、勉強を全投げした高校時代は赤点をとるほどで、友達との間では「計算ミス」がネタ化していた(数学といえば、3Dの空間認知が絡むから展開図系は苦手だったんだろうと今では思う。でも当時は全然意識していなかった。多分展開図が出てきたのはせいぜい中学時代までで、成績も少なくとも4は取れていたからそこまで困らなかったのではと推測)。。
かと言えば、人から理屈っぽいと言われることもあるし、それを自覚してもいる。何となく、広い部分では後天的に活性化した左脳的なところが機能しうるんだけど、狭いところではカバーしきれなくなって機能不全なのかなと、推測したりしている。計算は得意ではないけど、数学的な考え方には親しみがある感じとでもいうか。。ちょっと意味不明だけど。
ーーーーー(追記)ーーーーー
最近の研究知見ではコロナウイルスはBBB(血液脳関門)を突破し脳に損傷を与えていることが明らかになっている。これにより以前から気になっていた認知障害(車の信号無視や飛行機事故等、最近は電車のオーバーラン等も増えている)や外で咳をしている人間の九割以上がノーマスクである現象にも、特に前頭葉の損傷が関係している可能性が高いとわかり、非常に興味深く思うと共に暗澹たる気持ちになっている。
前頭葉は、時間や空間の管理、記憶や注意力維持、衝動制御、感情の調節(を行い社会的に適切な行動をとれるようにすること)等に関わっているらしい。
つまり、感染回数を重ねれば重ねるほど、脳や認知が壊れた理性のきかない反社会的人間(野獣)が増えるわけで、それは見事に現状(社会のノーガードノーマスクぶり、ノーガードノーマスク達の暴力性の高さ、特に今年に入ってからのおそらく認知障害が絡んだ未遂も含む乗り物事故増)と合致している。少し前にはコロナの後遺症にADHDの薬が効いたなんて研究も出ていたけれども、これも上記の前頭葉損傷による影響を薬が補完したからだろう。
つまり、コロナウイルスは後天的な脳損傷とそれによる認知や行動(その他味覚嗅覚含む)広範な障害を引き起こし、感染によって、先天的には健常者として生まれ長く過ごしてきた者が突如、「障害」の診断がつくもの(例えば本来は先天的なものであるはずの「発達障害」のADHDなど)と同様の状態になることが今後ますます増えていくと言える。ちなみに感染で(しかも感染のたびに)IQが下がることも明らかになっている。
このような状況においては、特に「後天的な脳へのダメージ」(私の場合は虐待が原因だけれども)による影響とそれへの対応に関して、サイト内でその時々に思いつくままに記載してきた雑多なことから見えてくるものがあるのではと推測している。そのため、この記事では順次「雑多」情報を追加していっている(記述時期もバラバラなので読みにくいと思います。すみません、、)。
虐待による脳損傷については、詳しく文献を見ていないので憶測に過ぎないのだけれども、おそらく私の前頭葉も何らかの影響を受けている(特に空間管理と記憶の部分に損傷がある可能性が高く、衝動制御や感情の調節については過剰に効き過ぎていると言える。抑圧性については脳損傷という物理ではなく心理や環境面の影響が大きいのかもしれないが)。
もう少し分析材料や知見があれば、自分の手でも今後の人々に役立つ情報が遺せたかもしれないけど、時間切れ。
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記憶や認知の整理は、物の無償譲渡の場でたまたま楽器を頂いたことにより始めたギター及び浮かんでくる曲やアーティストを通して行ってきた。
特に出現回数が多いのは、
●Darren Hayes(ダレン・ヘイズ)ーミレニアム前後にヒットしていたオーストラリア出身デュオ、Savage Gardenのシンガーソングライター。アル中で暴力を振るう父親と鬱傾向の母親による機能不全家庭で育ち、希死念慮や性の葛藤も抱えながら育つ。一度目は女性、二度目は男性との結婚歴あり(いずれも離婚)。初婚の女性との別離後にゲイであることをカミングアウト。おそらく周囲にアダルトチルドレンが多く、自死した友人に宛てた曲"You can still be free"をはじめ、これはこの世界について「知っている」人の感覚だと伝わる曲が多々ある。"To the moon&back", "Stupid mistake", "Crash&Burn", "Bloodstained heart", "Gunning down rommance"等。
●Coccoー沖縄出身の(ある意味メンヘラ御用達)アーティスト。ご両親は離婚、(おそらく父方の)お祖父様が沖縄演劇の重要無形文化財、真喜志康忠さん。デビュー時は「排泄」として歌い、リストカット(描写がある曲として有名なのは"Raining")アームカットや拒食を抱え、若くしてシングルマザーになった後「絵本作家になりたい」と活動休止。その後復帰するものの10年前位まではだいぶ不安定で引退未遂(?)を何度も繰り返したが、「アダンバレエ」で「サバイバー」として意識的に歌うようになって以降は、おそらくもう音信不通状態になることはないだろうなと長年のファンも安心して構えていられる感じになった(その前はいつまたいなくなってしまうだろうかと常にハラハラしていた)。現在は顔出しNG宣言をし、自分の苦痛を取り除き、安定的に歌える、歌に集中できるようにと、「ホーム(ワンマンライブや自身による配信など)」以外の場ではヴェール等を纏い、マイペースに姿を見せてくれている。
Coccoの今、とても良いよ。昔(活動休止前)のファンの人も、是非曲を聴いてみて。私は今のCoccoが一番好き。
不思議なことに、ダレンやCoccoに限らず、深く好きになった人達は、出会いのきっかけになった曲とよく聴くようになってから愛した曲がずれていることが多い。
具体的には、Savage Gardenは"I want you"で知ったしCoccoは(音楽缶の「強く儚い者たち」をスルー→その後)いわゆるリスカ曲として"Raining"を知ってアルバムを聴き始めたんだけど、(どれもアーティストの「顔」的定番曲でありながらも)私には「今日はこれを聴こう」ってなったり勝手に脳内再生されたりしてくることがほぼ無い曲になっている。代わりによく聴いたり浮かんだりするのはシングルカットされないアルバム曲やB面曲、アルバムからのシングルカットが多いダレンの場合はシングルカットされても順番が遅めな曲だったりする。
くるりも「東京」が薦められているのをスルーしたし、フジファブリックも「銀河」で気になって入ったんだけど、よく聴くようになってからは違う側面を愛していた。
こう考えてみると、やっぱり「謎感覚」は斜めなんだよな。そして「回避」と「選択」の両方を謎塩梅で制御している。自分の求めているものそのものでないものなのに何故か引っかかったり、華麗にスルーをかましていたとしてもその後きちんと合うものに落ち着けるようにしてくれたりするんだよね。ダレンとも長い間離れていたのにまた引き合わせてくれたりして。うーん、謎。だけど、私は(自分のことはあまり信じていないんだけど)「謎感覚」の特に「回避」の指示(オンタイムで把握できていないことも多い)はわりと信用している。だから、「終わり」についても冷静かつ主体的に選択し、納得している。
さて、24年度以降も生きる人は、古瀬幸広さんの「事業者の共助モデルのすすめ:感染蔓延社会のサバイバル」
https://furuse-yukihiro.info/multidemicsurvival/
に色々参考になるところがあると思う。
手指消毒が強調されているのは商品(GSE Grapefruit Seed Extract)の販促も兼ねているところもあるから、私は(勿論接触感染対策も必要だけど、記事内でその必要性の理由にされている飛沫の拡散を、)会議中のみに留まらずユニバーサルマスクで防ぐほうが効果も高く安価で済む妥当な方法だと考えているけど(頻繁に使う消毒液よりもマスクのほうが遥かに安価だし)。
ちなみに私は接触感染対策としては自分のもの以外極力素手で触らないことと石鹸による手洗いを選択している(ドアは基本体当たりして開けるし引き戸の場合は手袋をつける、ボタン等は鍵で押す)。アルコール消毒は店舗に置いてある自分でノズルを押すタイプのものは使わない。ノズルに他人のウイルスが付いている可能性が高く、また、中の薬液なども内容物や濃度などが適当なものか確実ではないからだ(過去にアルコール消毒容器の中に次亜塩素酸系のものが入っていることや、中身はアルコールでも薄められているのではないかというものがあった。下手したら消毒するつもりで他人のウイルスを刷り込んでいるだけという本末転倒な結果になりかねない)。足踏み式、自動噴射式のものは、店内で自分が何か触れたものがあり(他人のウイルスが手に付いた可能性があるものの)すぐに手を洗える状況でない場合、外に出る時に使う。すぐに洗いに行ける時はアルコールではなく、石鹸で洗い流す(アルコールだと手が荒れるし)。
コロナ対策に関しては、一番近いのはAngamaさんとMakita(Colorad)先生。最大リスクである「人との接触」自体から徹底的に避ける形(オフィス勤務しない、通勤しない、外食しない)。次がうじーさん(徹底的に飛沫感染と空気感染リスクを減らせるように特にマスクと換気を重視する)。この方々も私も未感染。川上先生も、リスクも認識なさった上でご自身はワクチンを打ち、きちんと検査、治療薬を求める方向性で、解明していないことは解明していない、わからないことはわからないと発信なさっているところがとても誠実だなと思っている(川上先生は感染歴あり)。
コロナは私の謎感覚が全力でまずいって、最初期の段階で反応を示したもの。
謎感覚なんて訳の分からないものを理由にすると一気に信憑性が揺らぐんだけど、年々、日に日に、きちんと「ただの風邪じゃない」を裏付ける研究結果が蓄積されてきている(上の古瀬さんのコラムでも言及されている)。
私にとってコロナは空気感染するAIDS。問題は感染直後の急性症状じゃないんだよ。見えにくいところでじわじわ蝕まれていく後遺症や晩発性の未解明の損傷。これが絶望と極めて近い。(最初期は重症化して死ぬ病気だったのに)何故かここを謎感覚が捉えたんだろうね。不思議。
好奇心や不注意、無策で、わざわざ絶望の沼に落ちることは勧めない。
ましてや他人を突き落とすことは絶対に許されない。
けれども、それでも、この国・民は気にせず楽しくノーガードで踊り続けるのだろう。
その先に、何が待っているんだろうね。
私は見ない。
"I believe in karma, what you give is what you get returned."
帰国子女受け入れ校である国際基督教大学高等学校(通称 ICU高校、ICUハイ、ICUHS)における感染対策に端を発した日本語科非常勤講師へのパワハラについては
From middle of nowhere
虐待関連は
Environment(環境)
に概略と関連リンクがある。
記憶や認知の整理を行なってきた
Guitar(20230722〜20240218)
はタイトルが日付で未整備なので参照しにくいことと思うが、逆にだからこそ日を追って見えてくるものが増えていった過程の記録としては意味もあったのか今では思う。
サイト内検索は、ページ上部のボックスに
from:@endingnote_23 「検索したい語」
を入れるとできる。例えば、「絶対音感」の記載があるものを探すのだとしたら
from:@endingnote_23 絶対音感
になる。
たまたま歌うことになった曲でSavage Garden解散前のダレンが鳥になっていたことに気付き、自身のエレジーとレクイエムにするためにもアルバムを通しで歌ってみることにした"Affirmation"(Savage Gardenの2ndアルバム、私はオンタイムでは1stしか持って聴いていなかった)シリーズ。
年末に全曲歌うには歌ったんだけど編集アップは結局間に合わなかった。
Track#05 "Crash&Burn" (from "Affirmation" by Savage Garden) Guitar1209&0114
Track#04 "The best thing" (from "Affirmation" by Savage
Track#03 "I Knew I loved you" (from "Affirmation" by Savage Garden) Guitar1207&1221
Track#02 "Hold me" (from "Affirmation" by Savage Garden) Guitar1204
Track#01 "Affirmation" (from "Affirmation" by Savage Garden) Guitar1203
そうそう、洋楽曲を歌っていた時につけていた和訳というか野鳥版日本語について。あれは基本こんなイメージで歌っていましたよという雰囲気意訳で、厳密に訳していないし時間も全然かけていない。
何度か書いているように、私にとって英語は完全に外国語。特に大学入学後の本人の認識は「英語は苦手」だし、ネイティブ感覚は全く無く、旅行以外で英語圏に長期滞在したことも無い。
「である」の世界への反発で海外に意識が向き、洋楽や洋画が好きだったのと、大学も大学だし日本語教員養成プログラムの関係もあり留学生の友達も多く、そういうところや旅行から吸収する文化面はあっても圧倒的に背景知識が足りないし、言語的にも教育虐待への反発で中学で授業が始まるまで完全に遮断していたから、完全に文法も発音も臨界期後の残念習得&高校時代は勉強全放棄。そして大学時代に触れていた英語は基本的にAcademic Englishだし翻訳通訳関係の授業もとったことがない。文学からも逃げていたから、英文学も教職の必修を埋めた分だけ。
つまり、まとめると、正確でなかったりずれたり間違えたりしている可能性もかなりあります。だから、訳というよりは一個人の解釈として、ご笑覧ください。。
あ、あと何故かnoteにアップしたmp3ファイルは再生がうまくいかないことが多い。基本的には切りのいいところまで撮っているので、変なところでブチっと途切れた時はロードがうまくいっていないせいだと思われます。(ただ、改善方法がわからない、、しばらくした後に開いてみるとまた別の所でブチっと切れたり、運が良ければ最後まで再生される、こともあります、、)
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"_23"が過ぎても、元所属(国際基督教大学高等学校、通称 ICU高校、ICUハイ、ICUHS)や国際基督教大学法人による新たな被害者を増やさないため、コンディションを見つつ残すべきことを細々書き続けている。
更新をしても日時は反映されないのだが、投稿日時が3月末、特に3月31日のパワハラ関係のもの+αは、これだけは書いておかなければとタイトル&スペースのみ先に作り、4月以降に書いているページである。書こうとすると気持ち悪くなったり体調を崩したりするためなかなか進まないのだが、準備ができ次第追加していっている。
「多様性」とはー「批判的思考」、「対話」の重要性(帰国子女受け入れ校におけるパワハラ問題と国立大学費値上げ150万問題から考える)
は、当初は「マルハラ」について書こうかと思って作っていたページを変更して4月に書き始め、気付けばものすごい分量になってしまっていたが、その過程でこれまで考えてきたことが不思議と連鎖で繋がっていき、うまいこと(?)最後のまとめになったのではないかと思う。(サイト全体に言えることとして、「考えてから書く」ではなく「書きながら考える」なので、構成も明瞭ではなく、というかそもそも立てていないので非常に読みにくいと思います、、すみません。。)
*「マルハラ」については、代わりにこのページ最下部にかなりざっくり書きました。
その後、「変わら/れない学校教師をどう変えていくかー学校(初等中等教育)教員と大学(高等教育)教員の違いから考える方策案」は主に5月から6月にかけて書き、「大学・高等教育とは?」は8月末に書き始めた。
書く気が出た時にその気分に任せて書くので、構成やまとまり、読みやすさわかりやすさとは程遠いものになっている。しかしそもそもここは元々共感や理解を求めての場ではなく、絶望による自死までの記録(世相含む)なので、これでいいやと開き直っているところがある。
元所属(国際基督教大学高等学校、通称 ICU高校、ICUハイ、ICUHS)のパワハラと国際基督教大学法人への申立関連の他のページについては、(記述時以降に関連事項を投稿した場合等に)リンクや見つかった画像等の追加をすることはあるが、それ以外は明らかな誤植以外、修正はしていない。
当サイトはその時々に起きたこと、降ってきた曲等と共に考えてきたことの記録の連なりで、(特にダレンの事など、何かを/に知ったり気付いたりすることで)考えている(た)ことが後に変わることもあったりするし、麻疹予測が外れたりしているのだが、それらを含めての「終わり」までの軌跡である(鳥頭で、記録が無いと辿れなくなってしまうから、雑多な発想連想などもあえてそのまま残している。そしてそれが後々活きてくることもままある)。
「傷つけられる人を増やさない」ために「私ができる最後の仕事」を何とかやり抜いて、"new day"、解放へ。それまであと少し、続けよう。
On going or undone
学校(初等中等教育)教員と大学(高等教育)教員の違い
法人対応について
入学を避けるべき層(日本語支援の実情を中心とした広報との乖離)
不合理ではないの不合理ー専門性全否定の行先
人権委員会申立書
担当していた生徒達について(見えにくいその困難苦悩とニーズ)
理解されないニッチな専門性(似て非なるもの)
「その日」に更新されるのは
Ending
と
私のことを知る人へ
となる。
それ以外は徐々に更新の形となっている(Endingはそこまでの軌跡で時々更新している)。
私はこの時代の人間に自分が理解されるなんて思っていない。無事に成し遂げた後、亡骸とこのサイトが繋がっても、他の多くの物事と同じように、一瞬だけ「消費」され、すぐに忘れ去られていくことだろう。
それでも、例えばダレンやCoccoのように、少しずつ時代が動いていく中で受け入れられたり可能になったりすることもあるし、20年、30年位の中長期スパンで考えたら、将来から振り返った時に、あの時あんなに愚かなことがあったのかと振り返って検証する素材にはなり得るだろう。せめてそういう時代になっていれば、その時に役立てられればと思う。
*マルハラについて
近年、文中文末の句読点を「こわい」と感じる若者が増えており、特に文末の「。」が「こわい」ということからなのか、「マルハラ(「。」ハラスメント?)」などと呼ばれている。
長年、高校で(日本語と)現代文を担当していた立場から思うのは、彼/彼女らがこわがっているのは記号自体ではなく、論理や複雑な思考を要する文字情報、特に長く複雑な構造の文の連なり(文章)であろうということである。
そのため、例えば筆者がこのサイトで行っているような記述の中で形だけ「、」や「。」を抜いたところで何の意味も生じない。
おそらく彼/彼女らが対応できる、短い、シンプルな構造の「文」(基本的に単文で複文は不可)、多くても2、3個位で発信するーつまり「、」や「。」が必要にならない内容と書き方、「非常に簡素な文もしくは単語のみ」にするのが、今の子にとって恐怖を与えない、負担が少ない形なのではないかと思う(段落、構造などを考えるような「文章」はNG)。
ティーンが利用するSNSの変遷を見れば明らかだが、10年程前から、(元所属は高偏差値高だったがそれでも)教え子達の、授業外で接するメディアの大半は「動画」(文字ではなく写真でもなく映像)になっていて、それ以前は否定的に捉えられることも多かった「ライトノベル」や「漫画」ですら、「読む」層はかなり限られていった。(当時、生徒に「Youtuberになりたい」なんて言われて心底驚愕したこともあった。)
文字数140のTwitterですら、彼/彼女らにとってはしっくり来ないもので、代わりにInstagram(写真メインのSNS)からさらにTikTok(動画メインのSNS)ー「見る」ものへと、利用されるSNSは変化していった(筆者の時代は「テキストサイト」で「読む」「書く」がメインだった)。
メッセージツールもプライベートでは「メール」など全く使わず「LINE」を利用する場合が大半で、そこで交わされるのが、まさに上記の「非常に簡素な文もしくは単語のみ(それすらさらに略されることもよくある)」+スタンプの形である。
内容も、「こうだった、こう感じた、こうしたい、こうしよう」など、自身と相手に直接関係する出来事や要求など、日常生活(近い関係、世界)のことがメインであり、そこには難しい単語も文章も、段落も構成も必要無い。
つまり、今の子は授業外で文章や抽象語彙、複雑な思考、論理触れることがほぼ無いわけだが、そんな中で「、」や「。」は、彼/彼女にとって負荷が高い文字情報、の中でも特に複雑難解なものを想起させるために、彼/彼女らは恐怖を感じているのだろうと、筆者は推測している。(ただ、これはあくまで一般的な層の話であり、現代においても「文学少女」であったり「漫画好き」であったりする子が消えたわけではない。ただ、その数は、中年以上が想像するよりはかなり少ないだろうとは言える。)
「映え」や「加工」に非常に拘る子が多いのも、(Instagram<TikTok、LINEで友人と繋がる)「見る」が中心の彼/彼女らの世界の中で視覚情報の占める割合と価値が非常に高くなっているからである。
また、InstagramにしろTikTokにしろ、かわいさすごさ、面白さなど直感的な印象が重要な要素であり、一方、写真→動画と自分に向けて発信されるものの中に含まれる(相手が作り上げる)情報量が増えるにつれ、特に文字の時代には必須だった、自ら補いつつ像を描く、想像創造の過程は見事に抜け落ちていくようになった。
つまり、今の子達は(自分で写真や動画を発信することもありはするものの、それより遥かに多くの時間を)他人が形成した情報を、一方的、受動的に(自分の頭を働かせることなくそのまま)浴び続けていることになるのだ。その際に動いているのは圧倒的に(自分と相手の)「主観」。「客観」や「メタ」の世界は遥か彼方である。
そして、このような状態がメディアに対する批判的思考を欠き、論理や抽象の世界への忌避も相まって、特にそれらへ遠い層(貧困、低学力)であればあるほど、(体制、広告業界、場合によってはカルトや特に新興政治団体等に選任される)インフルエンサーやその依頼元の「お気持ち」、プロパガンダの影響を受けやすくしている可能性もあるのでは筆者は危惧している。
社会の感染対策放棄(ノーガード)、特に反マスクやQ発生とそのあまりにも狂信的な行動の背景には、貧困、公教育の機能不全による、論理や抽象語彙を要する複雑かつ能動的な思考(すぐに掴めない遠いものを想像することを含む負荷の高いもの)への忌避とセットで起こる直感衝動欲求要求メインの自分(「主観」「お気持ち」)中心の負荷の少ない日常への執着性もあるのではないだろうか。
SNSの繋がりは極めて限定選択的で、自分に快適な情報/情報源のみへのアクセスの集中を作り出す。全体を俯瞰したり特に異なる立場や意見に触れたりということは起こりにくい。嫌なものは全てブロック!で負荷は避け退け、好きで心地よいものとだけ、楽に楽しくやっていける世界が生活の中心なのだ。我慢に対しても、それが必要になる状況に対しても、当然耐性が低くなる。
そしてだからこそ、筆者は特に低所得者層への教育機会、公教育の拡充、最低限のリテラシーの着実な定着とその一環としてのメディアリテラシー育成を重要だと考えている。