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Let's get fair. (元所属について良い点と向いている層)

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帰国子女受け入れ校である元所属(高校基督教大学高等学校、通称ICU高校、ICUハイ、ICUHS)「人権」や「多様性」を謳っているはずの国際基督教大学(通称ICU)法人における感染対策にかかるパワハラ追い出しとハラスメント対策の機能不全について全体的なことはFrom middle of nowhereへ。
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元所属の良い点は、何を置いても生徒である。
業界(帰国子女受け入れ校)きっての人気校ということもあり、入試による選抜が非常によくきいているし、基本的には裕福なご家庭で大切に育てられてきた層であるので、本当に良い子が多い。

●人間関係
まず、人柄については素直で朗らかで人懐こく明るい子が大半で、さらに活発、積極的な子もかなり多い。私のように屈折した内向きかつ人間を信用しないようなタイプは(全くの0ということは無いかもしれないが)間違いなく少数派も少数派で、屈折が無くとも静かで寡黙な優等生タイプも少ない。
基本的に家庭や環境に恵まれ、大切に育てられてきた外向きかつ健全な子達の集まりなので、公立では起こりがちな妬み僻みから生じる嫌がらせや足の引っ張り合いのようなことは少ない。
例えば、裕福であることや学力が高いことで虐められるなどというのは、程度の差はあれど皆がその状態なので起こりにくいし、帰国後、入試までの学校生活中に例えば「英語の発音」や「(周りとは異なる)自分の意見を伝えること」 などで、「だから帰国子女は」とか「KYだ」、「日本ではこうなのに」等と(ピアだけでなく教師からも)言われ嫌な思いをしたり苦しんだりしてきた子達に関しても、皆がその馬鹿馬鹿しさや理不尽さを知っているし、その中の一定数が当事者だったので、自分は繰り返さないようにと思っている(自分がされたから人にしてもいいと思うようになるのではなく、人に同じ思いをさせてはいけないと思えるようになるのには、それなりの学力と育成環境が必要になるが、荒れ荒んだ家庭の貧困低学力層はこの学校にはとても入れない)。
総じて自分も人も大切にするというムードが「生徒間では」共有されており、その上で各自の個性や自主性を発揮していける良好な環境であると言える。

ただし、そのように個性や自主性が重視される、外向きで強めの個を持つ子が多い環境なので、逆にそのような個が確立されていない、(この学校に入ってくる層には少ないと思うが)手取り足取りレールを敷いて(強いて)くる親の言うことを忠実に守り、常に周りの顔色を伺い空気を読んできた「日本的な」優等生は、周りに多少圧倒され、場合によっては居心地の悪さを感じるところもあるかもしれない。一般的な日本の学校では重宝されるこの手のタイプは元所属においては完全にマイノリティーである。しかし、それでもそれ理由に虐められるということはまず無い。それもその子の個性として受け止められるからである。そして、だいたいの場合は、価値観の近い周辺とコミュニティーが形成され、異なるタイプのコミュニティーとは一定の距離を置いて、それぞれに快適な学校生活を送っている場合が多いように見受けられた。

いじめは完全に0ではないかもしれないが、かなり少ないと思う。非常勤に対して伏せられ共有されない情報が非常に多かったこともあるとは思うが、ほとんど聞いたことが無い。周りの非常勤の先生ともいじめについての話をしたことは無いし、少なくとも私が担当してきた海外在住歴の長い子達のクラスにおいては、そのような気配を感じることも無かった。

【お勧めする層】
・国内の特に公立校において、「自分がマジョリティーと違う」ということで攻撃され嫌な思いをしたり、直接的な被害が無くとも悩んだりしたことがある子(帰国子女だけでなく国内生まれ育ちのダブルなども)
・あるいは、帰国後に自分はそのような思いをしたくないと考えている子
・海外滞在歴やルーツは無くとも、個や個性を否定される経験をしたり、または自分以外がそのような否定や嫌がらせ等を行うことに違和感を抱いていたりして、そうではない、西洋的な価値文化に親しみを抱いてきた

●学習
学力面においては、書類選考で入ってくる帰国生は基本的に滞在地で高い成績を取れている層なので、英語(もしくは英語圏以外の現地校の場合は英語以外の言語)での学習能力、つまり会話などの表層面のみでなく高次元の言語運用能力を獲得した上で、それをベースに学業を高レベルで達成できた生徒であると言える。
成長段階のいつ頃海外に出たのか、何年間、どのような言語学習環境にあったかなどによりバラエティはあるが、

英語もしくは現地語を核に学んできた層については、その得意な言語で極めて高い発達を遂げているので、帰国後、当該語での授業機会がほとんど失われたとしても、本人の意欲や入試のための必然性から一定の言語力を保つことは可能となる。(現地で学び続けたのと同程度まで、入学後もさらに伸ばすというのは極めて難しいが。また、英語の場合カリキュラム内の扱いや入試での優遇も多いので維持しやすいのだが、それ以外の場合は伸長以前に保持の段階でも困難度は上がる。)
①1条校で日本語で行われる授業についていける程度の日本語能力があり、それに加えての英語能力(+α)がある場合、特に難関国立や医学部などの一般入試を想定していない(英語を利用したAOを利用する)時には、高校生活及び学習進路面でも概ね心配無く、楽しい3年間を送れることになるだろうと思う。

帰国生で注意が必要なのは、②英語以外の言語が一番強く、英語でも日本語でも高校レベルのカリキュラム習得が困難な場合と、③日本語での学習が極めて困難な場合である。

②の場合は、入学後の得意な言語の保持機会が少なく、入試面でのアドバンテージも少ないので、実質的に日本語もしくは英語(弱い言語)での学習及び入試対策を迫られることになる。
元々よほどずば抜けたレベルで学校外の習い事や努力で言語力を保持伸長でき、大学は留学の形を取るにしても、英語圏以外については支えられる教員が専任にいない。よって、英語以外の言語については、校外に信頼できる伝手とそれを利用するに足る財力があり、本人の意志がよほど強い場合以外は、コンテストでの受賞歴などAOで使える実績が無ければ、入試は日本語か英語で取り組むことになる。そして、推薦枠を検討するのであれば高校内での日本語による授業で一定の成績をおさめるか、SATやTOEFL等、英語で高校(の優秀層)レベルのスコアを獲得することが必要になってくる。重要なのは、そのいずれかの道に通じるレベルの日本語もしくは英語の素地ができているかと、得意な言語以外で学び、やっていこうと思える気持ちがあるかである。また、残念ながら一番得意な言語の力については在学中に衰えていくので、それを受け止められるかも大切である。その言葉を使って学ぶ、読み書きの高度な言語運用習慣が絶えるので、停滞もしくは衰退が起きるのは当然のことで、決して本人のせいではない。そのことを是非、親御さんや周囲の方が伝えて支えてあげてほしい。そして、可能であれば、特に読み書きでの言語保持機会を作ってあげてほしい。
まとめると、一定の日本語もしくは英語力をベースにして、学習や入試につまづくことが無ければ、この層も概ね楽しく高校生活を送れることになることと思う。ただ、やや注意すべきは、校内の雰囲気はアメリカ的なところがあるので、欧州の特に現地校出身者には違和感や居心地の悪さを感じるところがあるかもしれない点である。

③については、詳細は別のページに記載するが、この学校は「国際」と名はついているもののインターナショナルスクールではなく、教員も英語科以外は日本人、授業も日本語で行われる、普通の日本の学校(1条校)であることをまず念頭に置いておく必要がある。広報では日本語支援についてPRしているし、書類選抜では実際日本語能力を問われないので、日本語に困難を抱える生徒でも充分に学べる体制があるように見せかけられているが、現実は、残念ながら全くそうなっていない
校内の日本語で行われる授業についていけない生徒達にとっては、高校時代に学ぶべき教科の知識が積み上げられず、ひたすらこぼれ落ちていく3年間になりかねない。得意な言語で学べていれば、入学前と同様、高い達成や成功をおさめられていたはずなのに、である。そのためこの層は、英語で学べるインターナショナルスクールか、他のより充実した日本語支援体制がある高校を選択することをお薦めする。
着目すべきは、この層も(校内での日本語で学ぶカリキュラム習得極めて困難であったものの)「英語が強い場合には」基本的に「大学入試は突破できる」ということである。2年次以降、SATやTOEFLのための選択科目で授業を受け、だいたいは校内の授業のみでは足りないので校外での塾や家庭教師を組み合わせ、本人の努力も加えて(日本語ではどうにもならないというのが明らかなので高い必然性があり追い立てられる)、場合によっては高スコア取れるまで何度もSATや TOEFLを受け、英語利用の推薦で進学先を見つけていく生徒が非常に多い。そのため、進学実績としては彼/彼女らの苦痛苦悩や学校授業外の努力が全く見えない形で、学校の環境が華やかな結果を作り出しているようにも見えてしまうのだが、実際は、生徒個人の能力努力と外部機関、家庭の財力に依存しているところが非常に大きいというのは認識しておくべきことであろう。また、ここでも得意な言語が英語でない場合には大きな苦難が訪れることについても。入学時に日本語もしくは英語で高校レベルのカリキュラムが習得が困難である場合、本人の意志と努力でいずれかの言語で入試を突破するための方策を早い段階から練らなければ、思うような進学先を得られなくなるリスクが高いので、慎重に検討をしてほしい。

④(国内の中学から一般入試で入学してくる)一般生については、偏差値70↑に位置付けられている学校であることもあり、非常に優秀であるし、教授言語が日本語である(普通の1条校の)元所属内では、(日本語利用歴に制限がある)帰国生と比べ、学習環境や成績の取りやすさにおいて、相対的に、というかかなり有利な立場にあると言える。難関国立や医学部等を狙うわけではない場合、成績を利用した推薦などで一定の進学先は得やすいし、そういった面でも楽しく安心して高校生活を満喫できるだろう。一般入試を想定しない場合は、おそらく塾等へ通う必然性も低く、校内の授業、友人との交流や部活等を存分に楽しみ、高校生活に充実感を得られる場合が多いことと思う。
私は一般生との関わりがほとんど無かった(直接対話したことが無い)ので推測に過ぎないのだが、早慶や国立附属でなく元所属を選んだ層は、同校の掲げる国際性や英語のイメージに惹かれてきたのではないかと思う(同等の偏差値であれば、一般的にネームバリューがあるのは早慶国立附属なので、特に「である」の価値観が強い家庭においては、同校を選択することは稀であろう。入りたい明確な理由やビジョン無しに選択される学校ではない。私の出身中学から同じ代で同校へ進んだのは中3帰国で帰国枠で入った1名のみだった。ちなみに私の出身高校から同じ代で同じ大学へ入ったのも1名のみ、ついでに言うと同じ小学校、中学校から私の他に同じ大学へ入ったのもそれぞれおそらく1名ずつのみだった)。
そこで注意すべきは、まず英語についてである。元所属において英語はレベル別開講となっているのだが、現代文とは異なり、英語のレベルは基本的に固定である。そしてレベルの固定は、配属時の能力に応じた授業の継続による伸長幅の固定も起こしやすくする。
私は大学の英語プログラムにおいて(当時は)3レベル制のうちの真ん中(Program B)に位置付けられた(ちなみに一番上のProgramCは多くが帰国子女や短期留学等の経験者だった)。教育虐待過干渉抑圧への反発で小学校時代に先取りを全拒否し、完全に中学入学後に0から始め、しかもコテコテの文法訳読型の授業を公立中と都立高で受け続け、そのうち高校時代はほとんど勉強を全放棄していた状態でそうだったのだが、その後仰天したのが、「ハイ上がり」と呼ばれる元所属から大学に入ってきた複数の友人がProgram A(一番下のレベル、つまり、英語習得において環境がよかったとはとても言えない私よりも、英語や国際性が特色のはずの高偏差値高校から来た子の方が低いレベル)だったことである。その中には帰国枠で高校へ入ったという子もいた。「何で?どうして?英語のイメージのある学校だったのに、しかも帰国子女なのに?どうなってるの?」と当時は大混乱だった。
しかし今は、レベル別授業でおそらくL3やL4に位置付けられた子等だったからなんだろうな、と推測している。
生徒達からの話から判断するに、元所属の英語4レベル制は、上の2レベルは中学まで英語で学んできて英語で良い成績がとれていた帰国生の中で充分に英語が発達し大学入試もSATやTOEFL等英語を利用することになる可能性が高い層(私が関わってきた生徒等の多くはこの2レベルにいた)、下の2レベルは一般生と海外在住歴はあるもののそこまで長くない等の帰国生が配属されることが多く、L1L2とL3L4の間には大きな差がある形になる。(これは現代文においても同様で、現代文の場合はL1L2は一般生、L3L4は帰国生が多く、やはりL3とL2の間のギャップは大きそうだった。ただ、現代文は随時下から上へレベルを上げていく形で固定ではなかった。)
つまり、英語が好きで英語を学びたい、英語を伸ばしたいと期待して入っても、入学時のレベル分けにより、スコアが出ず下のレベルに位置付けられた場合に、思ったように結果が得られない(他の学校を選択していたほうが力が伸びた)可能性を想定しておく必要がある。そしてそのため、「英語力の伸長」を目的に同校を選択する場合は、L2に入るため、入学時の英語能力を、一般的な高校受験で問われる単語や文法、文型などの積み上げ、英文和訳、英作文などに留めず、英語で(言語以外のカリキュラムの)講義を受け、学び理解し、自ら調べ、まとめ、アウトプットできる(口頭でも記述でも)ところ、つまり海外で英語で授業を受けて成績を取れていたきた層となるべく近くまで、完璧でなくてもなるべく、上げておくことが重要であろう。国内の中学へ通いながらここまで自分を整えられる層は自律学習に長けているだろうし、それは同校への入学後にも非常に活きてくる特性にもなる。是非チャレンジして、入学前にも入学後にもぐんぐん力を伸ばしていってほしい。
なお、英語能力に固執せず、国際的な雰囲気を感じたい、海外体験のある仲間と共に過ごしたいという場合には、入学後にはもれなくその望みは叶えられることになるだろうから、期待していてほしい。
上にも書いた通り、同校の生徒は素晴らしい。「自分は自分、人は人」を保ちながらもカラッと明るくフレンドリーで、打ち解けたいと望む相手は喜んで受け入れるし、ちょっと違うかなという場合にもそれはそれとして受け止め、それぞれに快適な距離感を模索しながら付き合っていけることと思う。変に空気を読まなくてもいいから、遠慮せずに、思ったことを伝え合って、自分らしく、そして楽しく過ごしてほしい。勿論相手への思いやり、配慮は必要だけどね。思いやりや配慮も自然にできる優しい子が多いのも同校の環境のとても良い点。

脱線してきてしまったので話を戻すと、校内の教育は基本的に生徒のポテンシャル(+塾などの外部機関を利用できる家庭の財力)に大きく依存した形で行われる。よく言えば自主性を重んじる形、悪く言えば放任スタイルである。
これには一定の合理性がある。同校は高い人気によって入試でのスクリーニングが非常によく機能している。基本的に恵まれた能力と高いモチベーション、裕福な家庭(財力)を持つ生徒が在籍するところなので、それに合わせた形になっており、優秀な生徒に教えることを想定した教員が揃っているわけだ(総じて教員の学校歴は高い)。
手取り足取り、細かく口喧しくああしなさいこうしなさいと指導するタイプの教員は少なく、大学とは異なり、高校は日常の課題量も少ない。勉強に追われるとか窮屈な思いをするとかいうことは少なく、基本的には(日本語能力に困難が無ければ)楽しく自由に学べる環境であるとは思う。
つまらない、勉強が嫌いになったという気にさせる授業は少ないはずだが、受験対策としては弱いところがあるので、それを込みで、特に難関国立や医学部などを目指す場合などには、あるいはSATやTOEFL等を利用した推薦を利用する場合にも、校外での対策と自身の努力でやっていける、やろうと思える状態でない場合、厳しいし、経済的な事情で塾など外部の利用が困難な場合にはさらに相当厳しいことになる。また、校内の大半が推薦で進学先を決め、一般受験をする層がごく少数派であることも、特に推薦結果が出始める11月以降の一般受験組の精神に堪える点であろう。
総じて、難関国立医学部等の一般受験組と、英語を利用した推薦入学もしくは提携大学への推薦が不可能な場合(日本語でも英語でも好成績がとれない場合)には厳しい環境であると言える。

【お勧めする層】
・教え込み、詰め込み型の授業で勉強につまらない思いをするのではなく、楽しく自由に学びたいと思う子
・校内で行われる日本語による授業に問題なくついていけ、さらに英語での強いアドバンテージがあり、SATや TOEFL利用の英語を用いた推薦で進学先を得ることを想定している子
・学校生活や授業は存分に楽しみ、受験は別物と位置付け、授業外校外で目的達成(合格)のための支援を得られ自発的に努力もできる(その経済力がある家庭の)子
・海外経験のある仲間と共に学び過ごしたいと一般受験で同校へ入学し、大学進学は推薦入試を想定している、中学まで国内で日本語でしっかり学び高い成果を上げられてきた子

●学校生活
本当に高校生活を満喫したいと感じてきて実際存分に楽しんでいるんだなと、生徒を見ていてよく思った。
特に帰国生は、部活をはじめ、ちょっと面倒な練習、人間関係を含めていわゆる「青春」的な日本の学校生活を求めてきた・いる子が多いように感じた。それは海外で彼/彼らが得られなかったものであり、日本語面での不安を抱えながらもあえてASIJやインターナショナルスクールではなく1条校を選んで入学してきた子達の憧れというか夢的なものでもあったのではないかと思う。海外で暮らしてきたからこそ、滞在地では半ば眠っていた自分のルーツのようなものを探し求めるということもあるのではと思う。国内でだけ暮らしてきた日本人からは「異質」として弾かれてしまったりして、それでも自分を曲げずに平気で立っているように見えるかもしれないけど、その心の中には実は様々な葛藤があったりする。
彼/彼女らは海外で様々な背景のピアと学び生活をしてきて、「違い」には慣れているけれども、やっぱり「分かり合える」仲間、同じ日本というルーツを持ち、さらに日本以外の視点も持つ同胞の集まりの中にいられることが純粋に嬉しいんだろうなと、眺めながらよく思っていた。本当に楽しそうだから。そしてこれはASIJでもインターでも、他の帰国生が少ない1条校でもなかなか得難い、貴重な環境なんだろうな、と。

その上で私が思うのは、その楽しく得難い仲間との学校生活という果実と引き換えに、特に日本語での学習に大きな困難を抱えている子等が、安定した学びやその上で可能になる進路選択を犠牲にしなければいけない現状を改善するか、あるいは予め、誠実に実情を示して、学ぶにより適切な環境を選べるようにすべきではないかということ。

教員がファシリテーターに徹していても成り立つ、生徒が問題なく能力や自主性を発揮していける状態であれば全然かまわない。けれどもそれでは到底どうにもならないレベルの言語負荷を抱えている層には、きちんとそれに応じたしっかり学ぶ時間の確保と適切な支援、そのための知見が不可欠なんだよ。それなのに、高らかに支援を掲げながらその実無残に切り捨てている現状はあまりにも理不尽だ。

これ以上の犠牲者、傷付けられる子を増やさないために、私は開く。
行政部にも国語科にも法人にも一切顧みられなかった「日本語」の視点「も」持ち、生徒と「対話」を重ねてきた者として。

せっかくの楽しい学校生活、貴重な場、責任持って生徒を支えようよ。本来の力を発揮できる環境であれば非常に能力の高い子等なんだよ。それを何で、いくらでも支えようはあるのにできることを選択せず、広報とは真逆に放置し埋没させてしまって平気でいられるんだ。理不尽にも程がある。

内部で解決できていればわざわざ外に開く必要なんか無かったのにね。
事前に何度も、何度も伝えたのにね。

"I believe in karma, what you give is what you get returned."


●国際性について
生徒の大半が海外滞在歴や海外へのルーツを持ち、基本的には英語圏もしくはインターナショナルスクールで教育を受け、「自分は自分、人は人」と自分の個性も他人の個性も尊重できる、極めて良好な環境である。
基本的に自分の意見や信念を持ち、アウトプットすることに長けている層が多いが、違いにも寛容なので、大人しめの子がいたとしてもそれを理由に虐めるようなことはまず無い。一定の距離を保ちながらそれぞれに過ごす感じになる。もし仲良くなりたいのだとしたら、それを伝えれば喜んで受け入れてくれる子が多いだろう。遠慮せずに伝えよう(何も言わなければ、明らかにバイブスが違う場合には、理由がなければ「それぞれに」となるので)。互いに違いも楽しみながら過ごせるようになるはず。
英語に関しては、L1L2に属する英語で高度に学ぶことができる層だけでなく、L3でも「会話は」流暢に行える層もいて、帰国生の大半は友人との会話に英語を使う/使える状態である。英語と日本語をcode switchingしながら用いる者も多い。そのため、一般生でそれまで英会話の機会があまりなく自信が無いなという場合にも、周りで自然に英語が飛び交っている環境なので、聞き取り(input)の機会は非常に多い。まずはそこで慣れていって、自然に単語や表現が出せそうになってきたら少しずつ発話(output)もしてみる感じにするといい。文法や発音の間違いを気にしすぎる必要は無い。勿論、全く識別ができないレベルでは会話が成立しないのだが、入試を突破できた一般生でそうなることはまず無いし、ネイティブスピーカーだって常に正しい文法で話しているわけではない(日本語話す時に文法的正しさを考えながら話さないでしょ?)。さらに英語圏にだって非英語母語話者がいるわけで、生徒等はそのような人との接触体験も充分に持っている。よって、英会話(日常レベル)に関して言えば、友人関係の中だけでも、主体的にoutputの機会を作るようにしていけば、配属レベルによらず(L3L4だったとしても)充分に慣れることができるだろう。これは1条校の中ではトップクラスの環境であると思う。とにかく自然に英語を使える層が厚いのだ。ただし、「読み書き」、英語で高度に学べるかという点に関しては会話とは別次元で先述の通りなので、注意してほしい。読み書きは、意識的に学習機会を作らなければ、日常の中で友達と自然に、というわけにはいかないので、教員による適切なサポートと授業、時間が必須となる。そして年齢相応レベルで高度に行えるようになるためのクラスはL1L2である。L3以下では英語を使った入試は全く不可能ではないかもしれないが、かなり困難となるので注意が必要である(現代文に関しても、L3以下で日本語を使った入試はかなり困難となる)。
生徒達は、特にアジアやアフリカ出身者が顕著だが、自分が過ごしていた地域の貧困や紛争問題に関心を持つ者が多い。その他、ジェンダーや気候変動問題にも関心が高い。学内でチャリティープロジェクトが行われることもよくあり、入学前や学外でボランティア等を行っていた/行う者も多い。弱者への関心や優しい眼差しが、「生徒間では」共有されていると言えるだろう。

多様性、対話について
圧倒圏に英語圏もしくは非英語圏のインターナショナルスクール出身者が多いが、世界各国の様々な地域から様々な体験を持った生徒が集まっているので、一定の多様性はあると言えるだろう。ただし、そのように「海外の出身地域」という意味では多様であっても、基本的には裕福な駐在家庭出身という点では似通っているので、例えば新聞奨学生、入学前に数年働いて自力で稼いで、などという学生や地方、公立出身者もいた大学の環境に比べると、多様性は低いと私は感じていた。
都内からの一般生だと、特に公立中からの場合はおそらく都立国際との併願状態(で元所属が第一志望)になるかと思うが、都立国際と比べると、圧倒的に在籍者の家庭の経済水準が高いはずなので、特に公立出身家庭には注意が必要である。幼少期から文化資本が潤沢で海外生活も含め非常に多くのものを吸収している子が多いし、服や持ち物なども自然に高価なものである子も多い。受験が終わるまでにアルバイトをする子もかなり少ない。日常の遊び、余暇の過ごし方等も、合わせる(子どもに窮屈な思いをさせない)ためには、都立へ通うのとは(学費とは別の)別格のコストがかかることを予め見込んでおくこと。勿論、持ち物や生活水準の違いで虐めが起こるようなことは無い。けれども、だからこそ、子ども自身が引け目を感じたり友達にも親にも言えずに悩んだりすることになる可能性があるから。

対話については、先述の通り、違いに寛容で柔軟な対応ができる「生徒」達の集まりなので、「生徒間では」成立するし、教員ー生徒間でも成立した。
別ページで記載の通り、筆者は元所属の非常に弱い感染対策に常に警戒感を抱き続け最終的には退職させられたのだが、その中でも授業、対生徒に関しては苦痛を感じることが無かった。筆者が語りかけたこと、お願いしたことを皆が理解、尊重し、協力してくれたからである。
具体的には授業中のマスク着用と、換気の徹底であるが、これらは専任には立場の差を利用して否定拒否妨害され続けたものである(どんなに苦痛だと伝えても研究室のノーマスクが変わることは無かったし、換気で開けた窓やドアはわざわざ閉められ続けた)。一方、生徒達は、圧倒的に欧米帰国が多くマスク文化には馴染みが無い者が主だったのにもかかわらず、「特に発話を伴う環境での感染リスクを気にし、少しでもリスクを軽減したい」と語り、協力を呼びかけた筆者の前で、授業中は、きちんとマスクをしてくれたし、換気のための窓開けを手伝ってもくれた
このように、違いがあっても相手の声に耳を傾け、受け止める素地が「生徒」にはある。素晴らしい「生徒」が集まる環境である、その中で皆がそれぞれに支え合い、刺激し合い、多くを学び吸収していける環境であると、お勧めする。

●教員について
元生徒による口コミにもあったように「外面が良い」学校でありそういった教員も多い。
高偏差値でありかつ業界トップクラスの人気校ということもあり、それ相応の経歴学歴/学校歴を持つ専任が多く、その中には一定の海外生活経験者(かつての帰国子女)もいる。
ただし、ここで注意しなければいけないのは、「帰国子女である」が「日本語に大きな困難を抱える生徒の状態や気持ちがわかる」と必ずしも一致しないことである。
元所属の専任になれたということは、良くも悪くも、国内で、日本語で、教員養成課程を経て教員免許を取得し、人気の高偏差値校(インターナショナルスクールではない1条校)の専任ポストの選考を突破できる学校歴を取得できているということである。つまり、海外経験はあったとしても、移動の時期や年数などにより、重大な困難、言語的な苦悩を経ることなくスムーズに、多くの場合は日本語も英語も伸ばすことに成功できた層なのである。そして、懸念すべきが、その自身の体験が、圧倒的に、打ちのめされるほどの言語的苦悩や負荷を抱える、かつての自分とは根本的に違う日本語レベルの帰国生の状態を、適切に判断することを妨げる(自分が何とかなったように生徒も何とかなると思い込んでしまう)リスクである。
逆境後の成功者にしばしば起こりうることだが(例えばどこかの府の元知事やビリギャル等)、自身の(逆境の中でも実は)ある程度恵まれたところからの成功体験を「努力の結果」と見なし、「同様に努力によって結果を出せない人間はその努力が足りないからだ」と切り捨てる、弱者の眼差しを獲得し弱者に寄り添うのではなく、「自己責任論者」化することはむしろ厄介である。そしてこのような思想は5類賛成派「ただの風邪」派、ノーガードノーマスク層との親和性が極めて高い(一方、弱者の視点を持ち、あるいは意識し寄り添う江原遥先生川上浩一先生はしっかりマスクをして感染対策を呼びかけている)。
隠していても滲み出てしまうんだよ。ノーガードノーマスクは「大丈夫であるはずの自分」を中心にした優生思想とも絡んだ弱者切り捨て思想の権化だから。そして切り捨ての方便には「自己責任」が使われる。質が悪いことに、強者権力者の「自己責任」は「自らの起こしたことは免責にし、他人に起きた不幸は切り捨てる」最強の方策だから。その理不尽や暴力を罷り通させてしまうのが圧倒的な特権性。

吐き気がする。

同校の行政部や専任の徹底した行動、不対話の核は「強者」「権力を持つ者」の側からの「弱者切り捨て」「自己責任」的眼差しにある。非常勤講師には容赦なく向け、日本語生には直接的には見せないものの露呈している。

同校は、大半の生徒が充実した楽しい高校生活を送り、一定の進学実績を上げ、満足して卒業していく環境である。口コミも総じて非常に良いし、私自身が見てきた生徒達の様子も、本当に楽しそうだった。【授業や入試対応除いた学校生活】においては。

日本語生への言語サポート体制の充実(1年次の日本語演習開講、現代文L4クラスの人数調整、日本語演習をきちんと日本語養成を経た教員に担当させること)を頑なに拒否し続け、目論み通りに日本語科教員を追い出し、日本語科を消滅させ、国語の目のみでやっていけると判断した行政部国語科、それを黙認した他教科の専任。
そもそも感染対策においても、生徒とは異なり、「マスクも換気もしたくない自分達」とは異なる考えを持つ、立場の弱い非常勤の訴えを無視妨害し続けられる暴力性、徹底した対話拒否の姿勢は、同校の「専任教諭」は、多様性とも対話とも遠い存在であること示していると言えよう。
「人権」「対話」「多様性」などを積極的にPRし、難民問題や沖縄の問題に関心があるように発信するなど、いわゆる「外面が良い」集団が、その実、構造的弱者弱者(非常勤講師)に容赦なく向ける暴力的な性質は、一般的には、直接生徒に向けられることはないだろう。
しかしそれでも、確実に、そのような組織の性質や視点は、特に立場の弱い、学校/教員が負荷なく賄える幅から外れた、日本語において特別な支援を必要とする生徒達への無理解、不傾聴、非対応という形で、表れてしまっている。
勿論、明らかな暴言、暴力を行うなどということは起こらない。けれども、徹底的に、問題を見ず、認めず、逸らし、かわし、対応しない姿勢は、行政部専任達が筆者に向けたものと同一である。

ちなみに「外面が良い」、そのための体面を気にするというのは「血統」「続柄(性別、何人目の子か等)」「身分」「地位」その他学校歴や職業等の各種ラベルを重視する「である」の世界の特質。
あの一族だって善人面して周囲に物を配ったり高額の香典を出したりしていたし、さらにお飾りを作るために「学区一の【都立高】」や「国立大学」への進学を強要したし(さらにこれは私が「女だから」というおまけつきで「男」の従兄弟は筑駒(【国立附属】)東大コース)、野獣の凶暴性は一貫して見ぬふりして刃物襲撃や物的証拠すら「無かったことにした」
元所属がアジアの貧困家庭に寄付金を送ったり、美しい国が(国内の問題や貧困には出し渋るというか「見ないことにする」一方)海外には数千億、兆単位の金を平気でぽんぽん送ったりするのも一緒。外から評価される自分でありたい、そのラベルが欲しい、ラベルによって自分の意義や素晴らしさを確認し続けたいということ(一方、自分で「する」人間はラベルにこだわらない。きちんと自分の足で立てていてその自覚があれば他からのラベルは必要ないから。そして「自分は自分、人は人」でそれぞれに尊重できるようになる。そのように、教養や理性の中では、理不尽や暴力から自由になって暮らしていくことが、ある程度はできるのではと、かつて、Sanctuaryの中では思っていた)。
「である」の住民は「所与」の固定化した権力仲間構造、御恩と奉公の関係性の中で生きる。「自分(達)」の世界、価値が全て。「内」の仲間には優しく便宜をはかるが、権力者に楯突く、「内」のルールに疑問を投げかけるなど、もっての外の禁忌であり、調和を乱す「敵」認定された人間へは容赦なく攻撃が向けられる。個や個性なんて認めない。出る杭は打つ。根拠や論理、何をする/したかは意味をなさない。何であるかが重要なのだ。土地や財産の保有者、校長、教頭、専任、理事、内閣、政党、政治家、政治家の息子、女、敵の娘、権威に楯突く反逆者、非常勤講師、、
権力者が見たくないものは「見ない」、認知も歪むしさらに都合の悪いことは「隠蔽」して「無いことにできてしまう」、その圧倒的な権威、特権、独裁、暴力性。こういう世界には「対話」も「多様性」も皆無

吐くほどお馴染みの世界なんだよ。だからこそ、刃物の記憶も絶望も蘇った。
「である」の人間に「敵」認定されたら終わり。法人にも、はじめから「非常勤講師」だというだけで既に終わり。
全ては無駄で不毛で何の見込みもどこにも無い。実際、一切の対話も補償も無く、かわして逸らして無視して自己責任で終わりにされた。

私は私であるから終わり。それで解決。切り捨て排除が理不尽な「である」の世界の合理性。

国際性?多様性?人権?対話?平和?共生?
いったいどこにあったのだろうか。アピールばかり、高らかに掲げられる中で。

話が逸れた。

2023年度以降、同校内に日本語科は消滅した。形だけ誰かを当てたにせよ、その人物は日本語教員養成を経ていない。加えて2023年度中には日本語科及び国語科の公募は行われていない。
2024年度からは、2022年度末に公募をかけていた国語科教諭が一名、入職しているはずなので、その人物が日本語の視点「も」持つことを祈るばかりだが、そうだとしても所属は「国語科」であり、そうである以上、古文漢文など、日本語生の言語支援に直接関係ない講座の担当があり、「日本語」にフルで尽力できるわけではない。
この状況でやっていけると思い込んでいるのが、同校の専任集団である。
彼らにとっての日本語生は、漢字が読めない、語彙が少ない、国語ができない生徒でしかない。
現代文のL4や日本語演習も、漢字と難易度の低い国語を行う場でしかない。

それがどれだけ不十分で、日本語生を傷つけているか、どんなに説明しても、全く伝わらなかった

日本語能力に困難を抱える生徒は、ASIJやインターナショナルスクール、もしくは日本語支援体制がある別の私学への入学を検討することを強くお勧めする。入学してからではあまりに遅い。高校3年間の安定的な学習は貴重である。不適切な環境でみすみす無駄にしてはいけない。


2023年3月21日

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