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【藤原定家の功績】古今和歌集 土佐日記 更級日記 源氏物語..現存最古写本 国宝多数 平安書物残す


教科書に載る平安時代の歴史的書物。古今和歌集、源氏物語、土佐日記、更級日記の作者原本は残っていなかった。知っているものは残っていると思い込んでいた。平安時代に書かれた古代文学の作者原本が伝わるのはごく稀で、残っていないのが当たり前、平安時代に作られた写本ですら伝わるのは困難だった…

そんな中、平安末期から鎌倉時代前期を生きた藤原定家は平安時代の書物の写本を多数作り、後世で現存最古となる写本を残していた。その藤原定家の「書物を残した人」としての功績を調べてみた



【平安中期の有名文学 失われた原本 】現代まで伝わった藤原定家の写本とは?

藤原定家が作成した 伊勢物語 源氏物語 古今和歌集 更級日記 土佐日記の写本。いずれも国宝や重要文化財となっている。 藤原定家の写本の存在感。定家はこの他にも多数写本を残している

<誰もが知る源氏物語>
平安時代中期に書かれた原本は失われ、
平安時代写本すら残っていない
鎌倉時代につくられた藤原定家の写本が現存最古とは意外



藤原定家が写本制作に励んだ原動力 実家の火事で蔵書消失のショック

定家が一生懸命写本などを残した理由  
定家19歳の頃、父の俊成は五条京極邸に住んでいた。
他家からの火事で家が焼失し、父俊成の蔵書が
一瞬にして消滅するという恐ろしさを体験
(この年は源頼朝が挙兵した年にあたる)  

以降、定家は生涯をかけて書写活動に精力的に
取り組み、おそらくいつ書物が失われてもいいように
家人も動員してたくさんの写本を作成した

火災の50年後、定家70歳の頃この火事のことを
思い出して涙したほどにショックな出来事だった 
明月記 寛喜3年8月19日の記事

国宝 明月記の世界 藤本孝一著 P20

おそらく俊成の蔵書には源氏物語の写本があったはずで
もし、この火事がなかったら俊成の持つ平安時代に
書写された源氏物語写本が現代に伝わった可能性?!


百人一首の人だけじゃない!藤原定家は平安中期の書物の写本を残し日本文化に大貢献


土佐日記と源氏物語 定家写本 現代までの伝来を図解
平安時代中期に書かれた有名な平安文学。平安末期から鎌倉時代前期を生きた藤原定家。後に“現存最古”となるような写本を多数残し”日本が世界に誇る古典籍”を充実させていた。定家には「百人一首」以外のとんでもない偉大な功績があった 

時間軸がピンと来てなかったので可視化

何よりも土佐日記原本を定家が見ている事実と、
足利将軍家にあったのが最後、、、
やはり原本は応仁の乱で失われた?!



【源氏物語】と【平安時代書物を残した藤原定家】について たられればさん 鮮やか音声解説

「光る君へ」の視聴とワンセットで追いたい
たらればさん の音声解説

光る君へ第9回     2024/3/3放送
作品を通して転換点ともなる衝撃展開
興奮冷めやらぬ放送直後の配信  とても分かりやすい
 ⚫︎第9回の解説 冒頭〜
 ⚫︎源氏物語とはそもそもどんなものか 00:31:00〜
 ⚫︎源氏物語は何のために書かれたのか 00:37:40〜
 ⚫︎源氏物語を語る上で欠かせない藤原定家の写本
  1:03:20〜
 ⚫︎平安時代の書物を写本として残すこと
 ⚫︎藤原定家の功績について
 ちょうど調べていた藤原定家の写本についての話題が!

リンク
▶︎源氏物語とその写本を作った藤原定家に関する話題部分
1:03:20〜1:10:33(約7分位)
源氏物語原本は残っているのか/平安のものは原本が無いのが当たり前/原点に近いものがあるといいなと/概ね応仁の乱が悪い(書物が失われた原因)/源氏物語とはどんなものだったのか原点 1:05:00〜/写本が新たに2019年に発見青表紙本 1:06:05~/武士への移り変わりの時代/貴族の時代は終わりだなと心ある人は思っていた 鎌倉の武士政権で帝が退位になったり流罪に/藤原定家は貴族とは何かという集大成を残した人/平安時代に書かれた文学作品をなるべく原点に近い形で書き写しましょう。自分だけでなく子孫もこれをやりなさい。これを藤原定家一族は家の仕事にしなさいと決めた奇特な人/定家の画期的なところ/いくつかの写本を集めて系統をまとめて紫式部の200年後の時点の写本であるが信用性が高いと

内容を深く落とし込まれていると
これほどスラスラ解説ができるのだなと圧巻!



土佐日記 写本(国宝) 藤原定家筆

国宝 土佐日記 文暦2年(1235年)公益財団法人前田育徳会所蔵
土佐日記の現存最古の写本 藤原定家 74歳時に書写

NHK知恵泉 「紀貫之」 回で紹介されていて、この字好き! 紀貫之ってこういう字なの?と思って調べたところ、
原本ではなく写本だった(この時に紀貫之の原本は無いと初めて知る) 日記の誕生から300年後にあたる1235年当時、原本が三十三間堂の宝蔵にあり、体調が万全でない中 定家は大興奮で2日間で写本したという背景を知ると愛おしい写本。
古今集和歌集撰者の紀貫之  新古今和歌集撰者の藤原定家
両者ををつなぐアツい話

平安時代中期の当時、遣唐使の影響で唐の文化が流行り
和歌は廃れそうになっていた。紀貫之はそれに危機感を持つ中、
庶民でも和歌が分かるように
女性に扮し和歌の勉強本として土佐日記を書いた
日記という題名では分からなかった実際の中身が意外!


源氏物語写本 定家本2019年新たに発見

承久の乱で貴族文化継承に危機を感じた藤原定家が
貴族文化象徴である【源氏物語決定版】を作成
定家が作成した写本全54帖のうち、
現存5帖だったところ、若紫が新たに発見され計6帖に!

源氏物語 定家写本(青表紙本)
左)新たに発見された若紫
右)現存はこれだけと考えられてきた5帖
野分は画像に無い
源氏物語 定家本「若紫」 鎌倉時代
注釈の小さい「あり」が定家の字 このページについては定家風の字ではあるけれど、 注釈以外は本人ではない筆跡。定家本という表記から定家直筆と想像されるが、実際の写本作業の大半は定家に仕える右筆や女性らがあたったとされている
定家直筆である一番の決め手  貴族のみ使う特有の墨
注釈部分は身分の高いものだけが使用できる青い墨で書かれていたため、この「あり」の部分のみ定家によるものだと断定された
最新研究!歴史フロンティア令和の新発見ランキング(NHK)《源氏物語の新たな写本 令和元年に発見》
さすが国宝級発見 堂々一位



更級日記 写本(国宝)藤原定家筆 展示!

「更級日記」国宝(宮内庁三の丸尚蔵館保管)藤原定家筆
定家70歳頃に書写した更級日記は 平安貴族の菅原孝標女が自身の人生を回想した日記文学 原本は現存せず定家の写本が最古
『更級日記』に言及する最古の記録は、
定家の日記『明月記』の寛喜二(一二三〇)年六月十七日

※2023.06.27国宝指定
元々国宝級の文化財であったものの、
宮内庁管轄のものは指定文化財の対象外のため国宝ではなかった管理運営を宮内庁から文化庁所管の独立行政法人に移したことにより国宝に指定

開館記念展「皇室のみやび―受け継ぐ美―
第3期「近世の御所を飾った品々」宮内庁三の丸尚蔵館
【会期】2024年3月12日(火)~5月12日(日)で展示

↓更級日記の現物を研究員さん解説付きで見てきました




写本とはそもそもどういったものか


印刷も保存技術も無い時代 手書きで地道に行われる作業
写本の背景や種類を整理することで以下が分かった
■伝わる写本が作者原本の内容そのままではない理由
■内容がどんどん変わってしまう理由
■写本を残すということの価値
■後世に意味が伝わる写本を作る価値
■作者原本が伝わる価値 

写本自体を知ることで、藤原定家の書物を残した人としての功績の理解が深まる。藤原定家は源氏物語が書かれてから200年後の時点ですでに意味の分からなくなっていた源氏物語を整理し、後世に伝わる写本を作成した



源氏物語リスペクト!藤原定家 源氏物語の写本制作を日記に記述 紫式部の才能を絶賛

藤原定家の源氏物語写本は
通称、青表紙本と呼ばれている

■定家が作成した源氏物語の写本作成背景
 ・『源氏物語』の紫式部自筆本は当時すでに無かった
 ・名作ほど転写本は多く自然に誤写も異本も増える
 ・源氏物語は当時内容がバラバラだった
 ・定家は原本に近い物を求めて、本文に相違のある
  複数の写本を照合して正す作業を行った

■定家の源氏物語「青表紙本」写本の成立時期
定家(64歳)の日記「明月記」
嘉禄元年(1225年)2月16日 記事に書かれた
記録の時期を成立と見る説が多い

去年十一月より家中ノ女・小女等以テ、源氏物部五十四帖ラ書カシム。昨日表紙ヲオワリ、、、  (以下略)

<日記に書かれている内容 要約>
●家中の女性を動員して書写作業を行った
●信頼性のあるよりどころとなるような本を求めて
 複数の本を照合したものの本文の乱れが多くて
 不審に思う事が多かった
宏才(大きな才能のある人)の作品で、
 読めば読むほど優れた物、
 自分ごときがわきまえて手を加える事など
 出来る物ではない

こうした定家の源氏物語へのリスペクトと
深い学問の知識を持って写本(青表紙本)は作られた

定家 明月記の物語 稲村榮一郎著 P208 



源氏物語リスペクト!定家の父 藤原俊成 「源氏物語は歌詠みの必読書」と大発言


藤原俊成の歌合の判定時での発言
源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり

建久4年(1193年)俊成80歳の時に挙行された
記念すべき世紀の「六百番歌合うたあわせ」で俊成は判者を行った
歌合いとは歌人を歌題(テーマ)ごと左右二組に分け
歌の優劣を決める和歌の大会のようなもので、
その最高峰ともよばれる大会だった

建久3年(1192年)に企画・出題され、
(源頼朝が征夷大将軍に就任した年)
翌4年秋に披講・評定され、同年に加判が終了
歌題は春15・夏10・秋15・冬10・恋50の百題
恋部は前半25題が恋の進行状態による設題、
後半25題が「寄物恋」型の組題となっているなど、
テーマが細分化され体系づけが考慮された画期的な試み

テーマごとに左右で分かれた歌人は
それぞれ与えられたテーマで歌を詠み上げ、
それが終わると双方相手側の歌を批判し
自分が詠んだ歌が優れていると主張する。
この時、判者は行司役を務め
左右のどちらかが優れている(勝)と判定する
優劣を決められない場合は引き分けとする

参加した歌人
左方

藤原良経中山兼宗
藤原定家(御子左家)
顕昭藤原季経藤原経家藤原有家(六条家)
右方
慈円藤原家房
寂蓮藤原隆信藤原家隆(御子左家)
藤原経家(六条家)

「冬上 十三番枯野」の判定

左歌
ー 見し秋を何に残さむ草の原
    ひとつにかはる野辺のけしきにー  良経

この良経の詠歌に対し、
右方の人の「草の原は聞き苦しく殺風景ではないか」という異見に対して、
俊成は判者の立場として「何に残さむ草の原ではないか」と、断固高く評価している。俊成はこの草の原の、盛りを過ぎた秋草の花や、途切れ途切れに鳴く虫の音の、どこで鳴くか定かでない奏楽からなる荒漠たる情趣を、「艶なり」と言っている。盛りを過きた生命力の衰退こそ深い情緒があると言っているのである。

この詠歌の判者として俊成は、
紫式部は歌詠みの程よりも物書く筆は殊勝なり
源氏物語』の「花宴」の巻は殊に艶なり」と絶賛
源氏見ざる歌詠みは遺恨(残念)の事なり
と断定している。

俊成が当時から遡ること約185年前に書かれた
「源氏物語』を、歌詠みの必読の書とした
有名な事実であり文学史上の大発見、大発言である!

臨終の雪 東野利夫著 P134 

【源氏物語】「花宴」 朧月夜と光源氏との贈答歌
ー浮き身世にやがて消えなば尋ねても
     草の原をば問はじと思ふー  龍月夜詠

紫式部は王朝貴族の全盛期に、そこに宿る翳りを見ていた。それを無視した外面的な華美や日常的優美さのみだけの描写では、済ますことのできない美的感覚の所有者になっていた。未世的動乱期に人生の暗闇を見つめざるを得なかった俊成。彼ら歌人が、『源氏物語』の世界、精神を心の種として志向し、そうした古典をよりどころとして、暗く無常な現実の実相を見据えるばかりではなく、それなりの美しさを蘇生させた。中世和歌の一つの特長をしみじみ思う。

臨終の雪 東野利夫著 P136


藤原俊成・藤原定家 親子、源氏物語リスペクトの熱量!
この古代文学への思い、
後世に多数の写本が伝わるほどエネルギーを伴い、
それが様々な人に伝播した結果、守り伝えられたのだろうと。調べるほどにもれなく自分も影響を受けた

↓この藤原親子の源氏物語への熱量は
なんと後世の戦国武将にも伝わり読まれていたという



まとめ

そもそも平安時代の書物は原本は失われているのが当たり前で、平安時代に作られた写本も伝わることは稀であること。誰もが知る源氏物語についても同様に原本が残っていないこと、写本も平安時代に作られたものは現存せず、鎌倉時代のものが最古だということ。藤原定家が源氏物語を相当なリスペクトの思いで労力をかけ原点に近い源氏物語として写本を残したこと。それが54帖のうち6帖現代まで伝わり現存最古となっていること。そういった写本が作られる過程や伝わることの難しさを知ることで、2019年に藤原定家の源氏物語写本(青表紙本)が新たに1帖発見されたということがどれだけ驚きの出来事なのかやっと理解できた。(正直、背景の知識が無さすぎてそのニュースの凄さが全然分かっていなかった)有名な平安時代の書物が現存するのかしないのか、写本として残した定家の功績などを通して、今まで意識してこなかった ”文化財が現在まで伝わる努力の過程” に思いを馳せられるようになって嬉しい



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歴史研究家の磯田道史先生も、藤原定家の書のファン


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