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武士はなぜ自ら王朝を開かなかったのか?武士と土地支配の歴史『フワッと、ふらっと、御成敗式目の法史学』

『フワッと、ふらっと、御成敗式目の法史学』

 よく「源平合戦・承久の変で武士の優位が決定的になったのになぜ、皇室に取って代わって武士が王朝を開かなかったのか?」という疑問が聞かれますが、それは私見では次のような理由からではと思います。

 そもそも源平合戦・承久の変は、それまで複雑でありながらもでも曖昧だった、土地の支配システムの変革を求めた戦いだったのではないかと思います。

 律令制以前は、各地域は古墳時代からの豪族が支配してきたわけですが、

律令制が導入され、豪族の支配を排し、

国土はすべて国有とし、また諸国を官僚制によって朝廷が直接的に支配することとなりました。

 とはいえども、今でいう知事などにあたる国司などには豪族が選任される場合が多かったようですが。

 次に土地私有を認めたほうがモチベーションが向上し、生産性が上がるだろうからという理由からだと思いますが、743年に墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほうが施行され、

開墾した農地は、永遠に開墾者(開発領主)ないしその子孫(在地領主)の土地としていいとして領地の私有を認めることになりました。

 今でも巨大開発行為などは大手デベロッパーしかできませんが、同様新田の開墾などは結局高級貴族、大寺社、地方豪族などの財力がある者しかできず、彼らが日本の国土の支配権を獲得していくことになります。

 しかし、土地法制もコロコロ変わりますので、とりわけ法制に携われない、地方の豪族領主が支配する土地の所有関係は不安定となってきます。

 いつ法制が変わり自領が公領に組み込まれるかもわかりませんし、

地方までがっちりとした治安維持体制が整っていなかったため、

(外国からの侵略の恐れがなくなった平安時代、

穢れを忌み嫌う思想もあってか、完全非武装化し軍隊は解散、

死刑も廃止し、治安維持のための警察組織もほぼなくなっていたため、地方のみならず京都も治安が乱れていたようです)

領主間で領土をめぐる争いも絶えず、そうすると自衛するしかなく、

それゆえに武士団が出来たという説もあるぐらいに、領土の所有関係は不安定でした。

領土の名義建前的中央の有力者皇室・高級貴族・大寺社・平家)に移し、

彼らを本所ほんじょ(本家)・領家りょうけと呼び、領土を彼らの権威により守ってもらおうともしました。

が、結局は本所・領家も京都にいて何かトラブルがあってもいちいち地方まで出向いてきて解決を図るなんて面倒なことはせずに、ただ上前をはねるだけだったのであてにはならなかったようです。

が、源頼朝は、源平合戦旗揚げ戦に勝利した後、

御家人となり、いくさとなれば馳せ参じ、我に忠義を尽くす(奉公)なら、「御恩」として、

領土の保証を完全に行い(本領安堵ほんりょうあんど)、

平家から奪った土地についても新たに与える(新恩給与しんおんきゅうよ)。」

との宣言をします。

 これで在地領主ざいちりょうしゅである武士達はみな頼朝になびいて、源氏は一気に平家を征することになります。

が、まだ旧勢力として京都の皇室・高級貴族が残っています。

 武士達のための新しい土地支配システムを完全に確立し、安定させるためには旧勢力との激突も避けられなかったのかもしれません。

 しかし、実力部隊である武士団の大規模集合体である鎌倉幕府側が有利に決まっていますので、

承久の変は鎌倉方勝利に終わり、武士のための新しい土地支配システムを明確にするために『御成敗式目ごせいばいしきもく』が制定されます。

 御成敗式目は全部で51条ありますが、武士のための新しい土地支配システムにつき定めているのは第7条で、

これが御成敗式目の要諦となります。

御成敗式目第7条

「第七条

一、右大將家以後代々將軍并二位殿御時所宛給所領等、依本主訴訟被改補否事

読み下し文(「右大将家以後代々の将軍ならびに二位殿御時宛て給はれし所領等、本主の訴訟により改補せらるゝや否やの事」)」

(筆者による現代語意訳)

「これまでの鎌倉殿(征夷大将軍源頼朝・源頼家・源実朝、尼将軍北条政子)から御家人に与えられた領地は、

本所等から訴えの提起があっても却下し、権利を奪われることはない。」

 武士たちは武士のための新しい土地支配システムの確立を目指して、

つまり安定した領土経営をしたかったために、

(家族、親戚一同、大勢の郎党、配下、領民たちを食わしていかないといけませんので。当時の武士の棟梁達は自衛軍をも有する企業の経営者みたいなものだったのでしょう)

源平合戦や承久の変を命を懸けて戦ったのであって、

新たな王朝を開きたいとかそんな野望は全く持っていなかったのでしょう。

 そもそも武士達の前身ともいえるであろう豪族達も、

大和朝廷初期に皇室と婚姻関係を結んでいるため、

(大和朝廷は、各地の豪族を軍事的に打倒するのではなく、婚姻関係を結び、

各地の豪族と親族となることによって平和裏に全国を平らげようとする戦略を採っていたものと思われます)

天皇の子孫である者がほとんどで、

また武士団の棟梁に担いだ、

源氏平氏軍事貴族達も天皇の子孫で、

鎌倉幕府執権職を世襲した北条氏平氏であり、

皇室は彼ら武家の本家ですから、

本家打倒など毛頭考えておらず、

単に土地の支配システムを確立したかっただけではないかと思われます。

 なお、御成敗式目第16条、第17条は承久の変の戦後処理について規定しており、

御家人が幕府に謀反し後鳥羽上皇側についていた場合、罪は重く、死罪の上、財産は没収すると定めています。

母親が源頼朝の父の兄弟姉妹であったため従兄弟で、

また幼馴染であり、

頼朝流人時代からの最側近であった、

近江源氏佐々木氏は、

近江源氏佐々木氏発祥の地
沙沙貴神社
(滋賀県近江八幡市安土町)

京都から近い近江の領主で、

また皇室や中央貴族、摂関家との関係が密であったため、

承久の変においては、一族の大半が上皇方につき、

鎌倉方についたのは、

鎌倉在住で北条義時の娘が妻であった佐々木信綱

母親が坂東武者・渋谷重国の娘出雲源氏の祖となる佐々木義清ぐらいでした。

上皇方についた近江源氏は京方の主力軍勢であったため、

鎌倉方についたほうが京方についた親族の穏便な措置を求めるとなると、

スパイ容疑や謀反の疑いをかけられるかもしれないとの思いからか、

近江源氏存続のため鎌倉方につき、

宇治川の戦いで第一の軍功を上げた佐々木信綱自らが、

京方についた兄・佐々木広綱一族を厳しく裁断するという悲しい結末を迎えています。

 承久の変が描かれた軍記物「承久記じょうきゅうき」では、

信綱による兄である広綱一族に対する、この過酷な戦後処理を物語の最後を締めくくる悲劇として描いています。

 なお戦後、広綱に代わって近江守護となった信綱は、

承久の変で犠牲となった一族を供養するために曹洞宗開祖道元禅師の勧めで高島市朽木に興聖寺こうしょうじを建立しています。

 承久の変は、朝敵とされた北条義時が圧倒的に大勝してしまい、

明治になるまで続く武家政権の礎を築いた戦いですが、

可哀そうなのはたまたま京都に出張っていたので後鳥羽上皇側につかざるを得なかった御家人、

京都周辺の守護・地頭だったので、後鳥羽上皇側につかざるを得なかった御家人達です。

 彼らは終戦直後の戦後処理において、

聞くも涙、語るも涙の悲劇を迎えることになり、一族根絶やしにされる、

あるいは許された者も歴史の表舞台から消え、

勝っていれば征夷大将軍となることもありえたのに、帰農するなどして庶民の中に溶け込んでいくことになります。

 一方勝者側の、執権・北条義時、その子北条泰時、幕府重鎮の文官・大江広元、参謀・三浦義村

先述の義時の娘婿で、宇治川先陣の武功をあげた幕府軍の主力部隊の将軍であった佐々木信綱などは、

一族郎党その子孫が長きにわたり栄華を誇り、

またこの5人はいずれも今上天皇陛下の女系先祖となっています。

 「承久記」によると、勝利の報を受け取った北条義時は、

「思い残す事は何もない。私の前世の果報が、王の果報に勝っていたのだ。ただ、前世において善行がなにか一つ足りずに、今世卑しい身分に生まれたのであろう。」

 と述べたとのことです。この言葉どおり、思い残すことはもうなかったのでしょう。この戦いの後、間もなくして義時は世を去ることとなります。

 このように近江源氏以外の多くの御家人も、

親兄弟一族郎党敵味方に分かれて戦ったので、

その場合の戦後処理に関する措置を定めたのが、御成敗式目第17条です。

 近江源氏の悲劇を避けるためか、

父子が敵味方に分かれていたとしても、

京方についた方だけを罰し、

鎌倉方についた御家人には謀反を疑わず恩賞を与えるとしています。

御家人以外の西国武士については、一方が鎌倉方についていたとしても他方が京方であった場合はスパイ等だったとみなし父子共に罰せられるとしています。

厳しいです。

 ただし、父子が遠く離れていて密通していなかったことが明らかであった場合は、鎌倉方についた者は許すともしています。

 御成敗式目に定められている内容は、土地関係以外では、御家人の相続に関することが多くなっています。

 当時の所領は広大で、分割相続させたほうが支配しやすいとのことからか、

長子の単独相続に限るとはされておらず

また女子への相続も認められています。

 ただこれにより分家が増えすぎた感があります。

 前述の承久の変で鎌倉方についた佐々木氏も、

その後分割相続にて、本家筋の六角氏以外に京極氏大原氏高島氏尼子氏などの分家雨後の筍のように増えていきます。

(これらのうち六角・京極・尼子などは戦国大名にもなっていくのですが、

明治になるまで大名として生き残った京極氏以外は、

織田信長や毛利氏などに敗れ、

江戸幕府旗本や各藩の藩士となる者、

帰農する者などに分かれていきますが、

その後敗者の苗字を名乗るのが憚れたのか、江戸時代になると本姓の佐々木氏を称し復氏する場合が多かったようです)

時代が下がると、兄弟姉妹みんなに分け与えるほどの領地がなくなってくるため長子単独相続が一般的になってきたのかもしれません。

 他に、御成敗式目には訴訟法も多く規定されています。

 (御成敗式目の訴訟法については後述いたします)

残りは守護・地頭の役割などの行政法刑法です。

「道端で女子を拉致してはならない。」等の規定もあります。

 殺伐とした時代を終わらせようとしていたのでしょう。

 御成敗式目はもともとは御家人を規律する法なのですが、

後に公家庶民もこれに従うようになり、

その影響力は江戸時代末期まであったとされています。

 承久の変も終わり、誰が圧倒的な軍事力があるのかがはっきりして世の中落ち着いてきたら、

揉め事はいくさや決闘のような自力救済ではなくて、

法システム裁判システムをキッチリ作り上げて訴訟でということになります。

 そこで北条泰時が中心となり制定したのが、行政法・民法・刑法のみならず、訴訟法をも含む幕府の基本法御成敗式目』です。

 鎌倉幕府成立直後から訴訟は行われていましたが、

慣習法によっていたため、それを明文化するため制定した成文法が御成敗式目です。

 三権分立とかいう発想はまだない時代ですから、

訴訟を裁くのは将軍であったり、

初期鎌倉幕府の内閣ともいえる『鎌倉殿の13人』だったり、

問注所もんちゅうじょ民事)だったり、

侍所さむらいどころ刑事)だったり、

政所まんどころ鎌倉地域の民事)だったり、

六波羅探題ろくはらたんだい西国の訴訟)だったり、

時代に応じて色々だったのですが、

命のやり取りである戦や決闘をするより、

訴訟するほうがまだいいということで、頻繁に提訴され、

裁く人が大変という様子がNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも描かれていました。

 当時の揉め事のほとんどは、土地(不動産:富を生む源泉ともいえます)に関することなので、

御成敗式目も不動産法がメインといっていいぐらいに土地に関する事項が多いのですが、

所領を増やすついでに政敵を倒してしまえ!ということで、あることないこと、

いや、ないことないことを讒言ざんげん的提訴に及び、

不動産をだまし取ろうとする場合のみならず、

政争や嫌がらせなどに濫訴らんそ(むやみに訴訟を起こすこと)、誣告ぶこく(わざと虚偽の訴えを起こすこと)を用いるということも頻繁に行われたようです。

 これをやられると、やられたほうもたまったものではないですし、

幕府の統治システムそのものを機能不全に陥れる可能性があるので、

御成敗式目では、讒言による誣告などをきつく禁じる条項も設けられています。

『御成敗式目第二十八条

一、搆虚言致讒訴事 

右和面巧言掠君損人之屬 文籍所載 其罪甚重 爲世爲人不可不誡 爲望所領企讒訴者 以讒者之所領 可宛給他人 無所帶者可處遠流 又爲塞官途搆讒言者 永不可召仕彼讒人

(筆者による現代語意訳)

「言葉巧みな讒言により人に欺き、傷付けることは古来より罪が大変に重い。

世のため人のためこれを厳に戒める。

讒言による提訴をした者はその者の領地を没収し、領地がない場合は流罪とする。

また他人の任官を妨げるために讒言をした者はこれを任官しない。」

御成敗式目第五十一条

一、帶問状御敎書、致狼藉事

右就訴状被下問状者定例也 而以問状致狼藉事 奸濫之企難遁罪科 所申爲顯然之僻事者 給問状事一切可被停止

(筆者による現代語意訳)

「訴状が受理されたからといって、その証明書等に基づき原告がその威力によって被告を詐欺、脅迫などすると当然ながら罪となる。

このような悪事が判明した場合は以後、訴状を受理することはない。」

 こういう規定があるということは、鎌倉時代にも上記のような悪事を働く者がなかにはいて、人々もまた幕府としても非常に迷惑していたということでしょう。

 その他、

有力者の口ぞえを禁じる規定、

ニセの証拠を排除する規定、

訴訟当事者の一族である奉行人(裁判官のような役職)は忌避され担当奉行人になれないとする規定、

など、公平を期す手続きが多く定められていました。

 訴訟は、原告がまず訴状を提出し、

被告答弁書を提出するという書面でのやり取りを三回繰り返した後、口頭弁論を行うという形で行われていました。

 また原告・被告の提出した書類を奉行人が調べ、

明白に理非の判断が可能な場合には、

当事者を出頭させずに、直接判決を下すという、訴訟経済に資する規定もありました。

 このように御成敗式目は、

原始的で残酷な『目には目を歯には歯を!』のような荒々しい掟でもなく、

現代にも通ずるような規定も多く、

(現代の民法に酷似する時効に関する規定もあります)

当時としては優れた法ではなかったかと思われ、それゆえ明治に至るまでその効力を有することができたのではと思います。

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