歩くことと、言葉を紡ぐことは似ている——ハン・ジョンウォン『詩と散策』
拝啓
朝の冷えた空気を楽しんでいたのに、にわかに暑くなり、額のしずくをぬぐってみたら、汗ではなく雨粒でした。もう少し五月の風をうけさせてくれと祈るように雨空を見上げました。
雨では歩きに出るのにも億劫でしょう。張り詰めた気持ちは、すぐには緩められないと思います。しかし、そうやって歩くことはむしろ、身体の感覚を研ぎ澄ますかもしれません。そこで感じたことを言葉にしたとき、詩がうまれます。そんな、あなたの姿を思い浮かべながら読んだのが、ハン・ジョンウォン『詩と散策』というエッセイ集でした。
冬と散歩をこよなく愛する筆者は、雪で一面が白く覆われるのを、道の境界が消えるといって喜びます。道がなければ、どこをどう歩いてもよいという自由が生まれる。すべてを思いのままに歩ける特権が得られるのです。誰の足跡もない一面真っ白な雪のうえを、目的もなく、ただ歩く。そんな光景を想像し、これから夏だというのに、半年先の冬が恋しくなりました。
歩ける自由を感じながらも、ひとりで歩くと自省的になるものです。視覚、聴覚、嗅覚は忙しくはたらいていても、さまざまな想いや考え、思い出までも脳裏に浮かびます。歩きながら筆者が思い浮かべるのは、詩やその一節です。死に向う沈黙を語るパウル・ツェランの詩。海への偏愛を散文詩のように語るカミュの言葉。夜空を見上げて思い出したのは、平安の歌人・源信明が恋する中務におくった和歌でした。
離れていても、いま、このときに見える月は同じはず。それを言葉に、詩に託す。自分の足で立ち、仰ぎ見る月に、みずからの永遠の愛を重ねたのでしょうか。和歌は詩であり、手紙です。離れているからこそ歌を詠み、相手におくったのです。
歩くことと言葉を紡ぐことは似ています。大地を感じ、全身でバランスをとり、弱いところをかばい、強いところは抜く。ゆっくりでも一歩ずつ前に踏み出せば、まだ見ぬ新しい世界が開けてくる。
言葉も同じです。みずから感じたことを、迷いながら、惑いながら、もっともふさわしい言葉を一つずつ選び取る。両脇に紐をつけた球は、はじめは揺れていても、その紐を両側から強く引っ張ることで、揺れが止まり、球は安定します。そのようなバランスを考えながら言葉を紡ぎ、詩を書き、文章を書くのです。借り物ではない、自画像としての言葉を紡いだときに初めて、胸に染みわたる。ああ、いいなと思えて、ほっとする言葉を話したり、書いたりできるのです。
日記のように、自分だけがわかればよいという言葉や文章もあります。しかし、言葉を届ける相手を意識するからこそ、言葉への感覚が研ぎ澄まされ、洗練され、血のかよった文章が書けます。だから手紙や詩が好きなのです。
散歩を愛し、猫と一緒に暮らす詩人である筆者ハン・ジョンウォンは、すべての始まりがこんな言葉だったらいいのにと告白します。
今回は、筆者の言葉を借ります。
曇り空なのと、今宵が新月なのが残念です。
あなたの手紙、お待ちしています。
敬具
既視の海