いのちや意識の「あわい」にあるものは——河合隼雄『中空構造日本の深層』、フィリパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』など
拝啓
暦のうえではすでに秋。台風が通り過ぎたあとを「野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ」としみじみ味わう清少納言には共感できません。でも、野分という表現は言い得て妙だと、9月が近づくたびに感じます。
こちらも、お返事が遅くなりました。毎年8月は仕事の都合で自分の精神活動がどうしても後まわしになってしまうのです。
それで、自分を取り戻すためにも、あなたとの往復書簡をすべて読み返してみました。すると多くの作品や批評をつうじて「魂とはなにか?」という問いにたゆたっていますね。そこであなたは、「魂」「たましい」を語る時にユング心理学の第一人者、河合隼雄氏は欠かせないひとりだといいます。
実は、私は河合隼雄の著書を一切読んだことがありませんでした。あなたが指摘したように、池田晶子『人生のほんとう』で河合隼雄・俊雄親子に触れていたのも気づいていましたし、昨年はNHKのカルチャーラジオで河合俊雄の 「こころと心理療法」という講演も聴きました。しかし、河合隼雄自身の著作は未経験だったのです。
それで早速、教えてくださった『中空構造日本の深層』のほか、『河合隼雄 物語とたましい』、小川洋子との対談集『生きるとは、自分の物語をつくること』を読んでみました。
むむぅ。難しいですね。
実は前回、わたしがうまくまとめられなかった竹内整一『魂と無常』の、しかも3ページ目で、河合隼雄に触れられていたのです。
ますます分からなくなりました(笑)。
「魂とはなにか」という問いを超えて、私がもっとも味わいながら読んだのが、「中空構造日本の深層」に収録されている『「うさぎ穴」の意味するもの』という児童文学論です。そこで紹介されているフィリパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』とハンス・ペーター・リヒター『あのころはフリードリヒがいた』もすぐに読んでみました。調べてみると、河合隼雄はさまざまな著書で、この2つの作品を絶賛しているようですね。
『トムは真夜中の庭で』は、弟が「はしか」にかかり、せっかくの夏休みを叔母の住むアパートに隔離させられた少年トムが、建物内にある大時計が真夜中に鳴らす13回の音をきっかけに、ヴィクトリア朝の世界に迷い込み、ハティという少女と交歓するファンタジー。
『あのころはフリードリヒがいた』は、幼なじみのユダヤ人少年フリードリヒがナチス政権下のドイツで遭遇する悲劇的な日々を、ドイツ人少年が淡々と描く物語です。
トムがハティの背中に両腕をまわし抱きしめて幸せな幕をとじる『トムは真夜中の庭で』と、結末でさえ、なぜここまでの仕打ちをフリードリヒは受けなければならないのかと憤りさえ覚える『あのころはフリードリヒがいた』。現在を生きるトムと過去を生きるハティ、ユダヤ人のフリードリヒとアーリア人の「ぼく」。
2つの物事があると、共通点をさがすか、または差異をさがすか。そんな思考の働きがあります。しかし、割り切ったり、明確に区切ることで、見失ってしまうものがある。それを河合隼雄は「たましい」と呼んだのではなかったか。
「たましい」「魂」というと、どうしても丸くて何らかの塊のようなものものを思い浮かべてしまいますが、実際には手に取ることも、目で見ることもできません。でも、どこかに実在する感じがする。それは、人の生き方、人の心における「あわい」にある。「あわい」はもともと両者が働き合うという「合わふ」の名詞形です。「あわい」というのは、位置ではなく、関係性。
『トムは真夜中の庭で』と『あのころはフリードリヒがいた』を読んだら、「魂とはなにか」という問いは、あまり気にならなくなりました。定義づけするよりも、トムとハティの「あわい」にあるものは何か? 「ぼく」とフリードリヒの「あわい」に何を感じたか。いのちや意識の「あわい」に自分は何を見出すか。そこに関心が移ったのです。
孫引きとなってしまいますが、竹内整一『魂と無常』で、河合隼雄の言葉が引かれています。
自分の忙しさに、心を亡くしていました。往復書簡とは、まさに「あわい」のいとなみ。それを欠いてしまうのは、「関係の喪失」であり、たましいの喪失ですね。
好みでは、ユング心理学というより、児童文学論のほうが、河合隼雄に近づいていける感触を抱きました。自分を取り戻すうえで、あなたにとって欠かせない河合隼雄という存在を教えてくださり、ありがとうございました。もう少し、著書を読み進めてみます。
9月になれば多少、気持ちにも余裕ができますので、またお手紙が書けると思います。そのころは、野分が負の印象を与える言葉にならないことを願います。
敬具
既視の海
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