現存在は世界内存在である後編-池田喬「ハイデガー『存在と時間』を解き明かす」
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現存在は世界内存在である後編-池田喬「ハイデガー『存在と時間』を解き明かす」
さて、この記事は、前回の記事の続きだ。読んでない方は、そっちを、先に読んで下さい。
読んだよ。
じゃあ、論を進めよう。前回、「存在と時間」の総論の中核をなすのが、
現存在は世界内存在である
というテーゼだと書いた。
どういう意味?
まず、
現存在って何?
ってところから始めよう。
現存在っていうのは、われわれ人間のこと
だよ。
じゃあ、われわれ人間と言えばいいじゃねーか、現存在?!ハイデガー、ふざけんな(怒)。
ハイデガーに、怒る気持ちもわかるけど(笑)。じゃあ、
なんで、あえて、人間のことを、現存在と言わなきゃいけないか?
について考えていこう。
おねがいします。
まずさ、存在って何?っていうところから、論は始まったよね、前回。
そこは、読んだよ。
存在って何?って考えるとしたら、
「存在の見本」を何にするかを、まず、考えなきゃ、そもそもスタートできないよね?じゃあ、結局、ボクらにとって、良い「存在の見本」ってなんなんだろう?
もしかして、存在を問うているわれわれ人間??
存在を問うているわれわれ人間は、「現に存在している」よね。良い見本になるんじゃないの?
そうだね。存在を問うているわれわれ人間は、現に存在しているから、良い存在の見本になるよね。
なるほど、
「存在を問うているわれわれ人間」それ自体が、「現に存在している」良い「存在の見本」となるのなら、「存在を問うているわれわれ人間」そのものを「現存在」と呼んだほうが便利なことは、なんとなくわかったよ。
でもさ、
なんで、「現存在」を、心とか主観とかって言っちゃダメなの?なんで、世界内存在なの?
いい質問だ。現存在=「存在を問うているわれわれ人間」のことを、それを考えている心とか主観とかと、とらえるのは、一見いいように思える。でも、新たな問題が生じてしまうんだ。
どんな問題が、出てくるの?
仮に、心とか、主観とかととらえると、何か、自分の外に、客観的な世界があるということにならない??
そうなるよね。でも、そうすると、
客観的な世界自体、存在するのか??
という究極の問いが出てくる。
客観的世界があると仮定しても、それをボクたちは、五感を通じて知覚しているだけだから、本当に存在してるのかわからないよね。
それが、新たな問題だ。でも、こう考えたらどうだろう?
現存在を、心とか主観とか呼ぶのをやめて、われわれ人間=現存在が世界の外にいるんじゃなくて、世界の内にいると考えたら。
おおー!ほぼ問題解決だね。
そうだね!。
ちなみに、ハイデガー的に言うと、内存在とは、住まうとかみたいな意味なんだ。
内部にいるという意味ではないんだね。
内存在と内部性は違うものだ。
たとえば、私は、芸能界に生きていますというとき、英語では、inを使うけど、内部って意味じゃないじゃん。
感覚的には、世界内存在って意味がわかってきた。世界に住まうって意味なんだね。
というわけで「現存在=存在を問うているわれわれ人間が、常に世界に住まうという形で存在しているということ」、
これが「現存在は世界内存在である」ということの意味なんだ。
おおー、実に深い!感動した!考え方が180度変わったよ!
こういう発見があると、哲学って、本当に面白いって思えるよね(笑)