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懐疑と信仰?-西部邁「大衆への反逆」

おおー、「大衆への反逆」読んだの?頑張ったね。

読むの結構大変だったよ。

この本は、評論家としての西部邁のデビュー作だよね。

実は、西部邁が、この本を出版したときには、もう44歳だったらしい。

遅咲きの才能だね。

とにかく、だいぶ歳をとってから、勉強しまくったらしい。

なんか、そんな歳になってから、評論家としてデビューして、日本の言論界に大きな影響を与えたんだから、人間、何歳になっても、新しいことをやれるって、勇気もらえるね。

そうだね。ボクもだいぶ勇気をもらったよ。井尻千男の解説で次のくだりがある。

 西部氏はある日突然のように、明瞭な文体を持った知識人としてわが論壇に現われた。そして今日の聖域ともいうべき聖域を次々に爆撃し始めた。「進歩」という聖域、「大衆」という聖域、「産業社会」という聖域・・・・・・。
 その稀有な文体の持ち主にであったとき、いったいこの文体はいかにして生まれたのか、そのことが私の関心の中心になった。この人は徹底的に懐疑しつつ、それでもなお信じたいと願うような精神を生きている、というのが私の直感であった、懐疑と信仰が決して対立概念ではないことを氏の文体そのものが物語っているように思えた。

本書Kindle版325頁

懐疑と信仰が西部邁の文章の特徴だったんだね。

そうなんだ。西部邁はある日からいきなり、「進歩」「大衆」「産業社会」という日本のそれまでの聖域に、爆撃しはじめる。懐疑と信仰をもってね。

でも、聖域に爆撃するって、とても勇気がいることだよね。

そうだね、西部邁は本書のなかで、大衆というタブーを批判することの罰をいずれ受けるだろうという旨を何度も書いていたよ。

でも、「西部邁が大衆批判をした」ということは、有名だし、結構受け入れられて、罰は受けなかったんじゃない?

そうだね、ボクは、そう思うよ。西部邁は、「保守の再定義」を行い、リベラル保守ないし保守的リベラルという政治的立場を生むことになるんだ。

ポリドルフィンさんの、今の政治的立場だよね。

そうだね。だから、本書を読破した意味は、すごくあったと思うんだ。本もそれなりにボリュームがあったけれど、今は読破したという点で、すがすがしい気分だね。

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