ハードボイルド書店員日記【60】
「これ、来月は村上春樹なのよね?」
静かで肌寒い平日の昼下がり。夏の残滓が予告もなく消え去ったせいか、ここ数日は客足が鈍い。私が四六版のカバーを折る横で、学生バイトの男性が眼鏡をかけた小柄な老婦人から問い合わせを受けている。彼女が購入したのは「NHK100分de名著」の10月分のテキストである。今月はヘミングウェイらしい。
「えーと、そうですね。巻末の予告にはそう書かれています」「うん。でも変更になったらしいよってお友達が」「なるほど」引っ掛かるものを感じた。この種の違和感をスルーすると大抵後悔する。念のため確認してみます少々お待ち下さいませと横から口を挟み、レジ脇のPCの前へ移動した。
「テキストの後ろにちゃんと書かれてますよ」バイト君は不満そうに眉をひそめている。プライドが傷ついたのかもしれない。「本来はそれでいい。けどちょっと気になるんだ」「どうしてですか?」「説明するのが難しい。書店員の勘だな」番組公式のツイッターアカウントに辿り着いた。
「お待たせしております。巻末にはたしかにそう記載されていますが、どうやら延期となったようです」「ああやっぱり! いつになったの?」「申し訳ございません。そこまではまだ。ただ来月はドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』のアンコール放送になるようです」「ってことは亀山さん?」「おそらく」「面白そう。私、あの人の訳で『罪と罰』読んだの」「光文社文庫ですよね。他の訳と比べるのも面白いですよ」バイト君が私とお客さんを交互に見ている。
「亀山さんって誰ですか? 作家すか?」「学者。ロシア文学の翻訳をしてる。小説も書いてるけど」「へえ。阪神にそういう名前の選手いましたよね。眼鏡で足が速くて」「よく知ってるな」早足で老婦人が戻ってきた。「ねえヘミングウェイたくさんあるけど誰の訳がオススメ?」「長編か短編かで変わってきます」「短編集でいいの」「でしたら王道は新潮文庫の高見訳ですね。より洒脱な味わいを楽しむならちくま文庫の西崎訳が」「それ在庫ある?」「ございます。少々お待ち下さいませ」
「先輩、同じ小説を違う訳で読み比べるんすか?」「たまに」「やっぱり買うんすか?」「買わないと線引けない」マジかあとバイト君は大袈裟に天を仰いだ。「俺には絶対ムリっす」「ヘミングウェイの短編、何か読んだ?」「『老人と海』ぐらいっすね」「それは中編だな。『清潔な、明かりの心地よい場所』って短い話、知らない?」「読んでないっす」「それをふたりの訳で読んだ。高見訳と西崎訳」「マジすか」「でも少し前に柴田元幸が『こころ朗らなれ、誰もみな』という本で訳しているのを知って」「買ったんすか?」「買った」「それだけのために?」「それだけのために」「文庫ですよね?」「単行本」「いくらです?」眼差しの強張りが尋常じゃなかった。巨大なカジキマグロを見つけた際の老漁師のように。
「2640円」「…ファイナルアンサー?」「……」思い切り間を空けた。ドラマ「半沢直樹」みたいに野郎ふたりが瞬きせずに見つめ合う。レジが暇だったからできることだ。
「…ファイナルアンサー」バイト君は西川きよしみたいな顔で頬を膨らませ、大きくのけぞった。「信じられない!」そもそも値段を知っている私に訊ねてファイナルアンサーと確かめるのはおかしい。世代的に「クイズミリオネア」をリアルタイムでは体感していないのだろう。「俺はおまえの年齢で亀山を知っていることの方が信じられない」「え? 俺、ロシア文学とか読んでないっすよ」「わかった。もういい」
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