ハードボイルド書店員日記【146】
「ビジネス書、ここだけですか?」
猛暑が続く平日。夏休みに入った子どもや外国人観光客、そして近隣に住む常連さん以外の来訪が少ない。外出を控えているのだろうか。いまは本屋に用はないと感じている可能性もある。増税に物価高。目に映る見返りの多寡で衣料や飲食物と競ったら寂れる一方だ。
午前中、ビジネス書の棚へ品出しをする。売れ筋の補充分や新刊ばかり。一歩離れて眺めてみた。認めたくない。だが新鮮味と驚きを欠いている。これが俺の棚か。渾身の真っ直ぐをホームランされて引退を決めた江川卓の心情を一瞬だけ理解した。おこがましい。私は彼みたいに力を出し切ってはいない。できることがあるうちに悩むのは時間の無駄だ。
声を掛けられた。
黒い無地のTシャツを着た30代前半くらいの男性だ。襟足が長く、左の耳に白いワイアレスイヤホン。LINEでも来たのかジーパンのポケットからスマートフォンを取り出し、画面を確認してこちらへ向き直る。
「そうですね。あとは文庫や新書、雑誌のコーナーにも」「前はもっと充実してましたよね」「申し訳ございません」棚卸と経営不振のために大量返品を強いられた。お客さんにそんな内情を伝えても仕方ない。そもそも言い訳だ。必要なら何度でも仕入れればいい。会社の意向と虚無感に屈し、手入れを怠ったのが真相だ。
「どういった本をお探しですか?」「なんというか……人生を変えて成功するために役立つのを」某書店の店主は、こういうお客さんに執行草舟「成功に価値は無い!」と勧めたらしい。「自己啓発」棚のさ行を横目で窺う。ない。売れたか、もしくは社員が棚卸の前に返したか。マスクの下で下唇を噛む。
だが「この棚にあるだけです、すいません」で終わるのは、記録的な猛暑日に漠然とした可能性を信じて本屋へ来てくれた人に申し訳ない。こんなものかと失望されることに対して矜持が疼く。
「よろしければこちらを」禅のコーナーへ案内する。いちばん力を入れている棚だ。「探してるのはこういう本じゃないけど」「スティーブ・ジョブズお好きですよね?」「え? まあ」先ほどポケットから出したのはiPhoneだ。しかもジョブズの存命中にデザインされた機種。2023年にあれを使っているのは彼と彼の目の前にいる書店員ぐらいだろう。
「でしたら、この本はいかがでしょう?」PHPから出ている「なぜジョブズは禅の生き方を選んだのか?」を手渡す。「ジョブズが書いたんですか?」「経済ジャーナリストと臨済宗住職の共著です。ジョブズの発言を紹介し、各々の専門的立場から見解を」
パラパラ捲って頷く。「ここいいですね。『ひらめきは論理的思考からは生まれない。論理を飛び越えて発想が自在に働き始めた時に生まれる』」
78ページだ。たしかに素晴らしい。しかし私が紹介したい一文は、その直前に記されている。
「人に聞いたり、本で読んだりした知識、情報は薬の効能書きと同じで、なにも役に立たない」
見下すように噴き出す。「本屋さん的にダメな考え方でしょ? こんなの認めたら商売にならない」胸が痛む。ジョブズのファンなら自ずと察してほしかった。「ダメではないです。用途を修行や自己啓発に限った場合の話なので」「どういう意味ですか?」「たとえば煮物の作り方を知るために料理書を読んで得た知識は役に立ちます」「それはまあ」「しかし己を作り変えんと志すのなら、外から得た借り物の知識だけでは十分でない」「じゃあどうすれば」「118ページと127ページを開いてください」こんなことが書かれている。
「自分が『これだ』と信じたことを一途に歩み抜けばいい。一歩一歩と自信はおのずとつき、道が開かれていく」
「これをやったら得だとか損だとかいうつまらない分別を忘れて、目の前のことに打ち込む。多くの人に支えられて生きているのだから、少しでもお返しができるように、ふれ合う人々に喜んでもらえるように働く」
「参考にします」と言ってくれた。昼休憩後に棚を見る。残っていた。こういう日もある。私は勧めた本を必ず買ってもらえるカリスマ書店員ではない。そして商売である以上、売れないとやっていけない。しかしビジネス書や哲学書の棚を実用書のそれと地続きにすることは拒否する。
短絡的な見返りを求める読書を否定はしない。だがリアル書店の棚がそれ向けの薄い選書で占められたら、私はネットでしか買わなくなる。本を衣料や飲食物と同列で語るな。卑屈になる必要もない。ダイレクトな必需品ではないからこそ、ロジックでは倒せぬ世の不条理と戦う武器たり得るのだ。
瀧本哲史「僕は君たちに武器を配りたい」を仕入れよう。再見。