ハードボイルド書店員日記【204】
「いらっしゃいませ!! お、本屋さん」
その呼び方は誤解を招く。
職場が入っている商業施設から徒歩数分。雑居ビルの一階にあるラーメン屋へ足を運ぶ。L字カウンターだけの空間だ。鉛を詰め込まれた身体をいつもの席へ落ち着かせる。店主さんとは同世代。たまに雑誌やマンガを買いに来てくれる。
「景気はどう?」
「連休は混みますね。疲れました」
「どんな本が売れてる?」
高確率でこの質問が飛んでくる。
「東野圭吾の文庫ですかね。ガリレオの」
「小説読まないなあ。ビジネス書は?」
「ずっと好調なのは、ダイヤモンド社の『頭のいい人が話す前に考えていること』とか」
「本屋さん、すごいね」
「何がですか?」
「いつ訊いてもパッと答えが返ってくるから」
話しながら手を動かし、美味いラーメンを作り続ける方が余程神業だ。
「あれですよ、桜井章一」
「誰だっけ? あ、麻雀強い人か。やるの?」
「著書を何冊か読んだだけです。彼の流派では、牌をツモったら一秒以内に決断を下す。だったら書店員も、いまみたいな問いに対してすぐ答えを出せないと」
「ただ機械的に仕事をこなしてるって思っちゃう?」
「ええ」
「なるほどね」
「ん?」
「そういう風に読んだ内容を落とし込むのか。勉強になるよ」
こちらは彼の気づく力、アンテナの感度の高さに敬意を抱いた。
醤油ラーメンを啜る。さっぱりしたチャーシューも絶品だ。太麺と細麺を選べるが、味に関係なくいつも細麺にしている。ある日、理由を訊かれた。子どもの頃に「棒ラーメン」が好きだったと告げたら俺も一緒だよと喜ばれた。会話をするようになったのはそれからである。
「本屋さんさあ」
「いや、店長とか経営者じゃないですから」
「俺どうしても人の名前が覚えられないんだよ」
「そうでしたね。すいません」
「いや、謝ることじゃないけど。あの文庫本売れてない?」
「どれですか?」
「辞書みたいに分厚いやつ」
「もしかして京極夏彦?」
「たぶんそれ。最近新しいの出た?」
「去年発売された『鵼の碑』(ぬえのいしぶみ)が講談社文庫に」
「この前、学生っぽいお客さんが待ってる間に読んでたんだ。びっくりしちゃってさ。本屋さんのお店で買ったんだろうけど」
「嬉しいです」
「何ページあるの?」
「たしか1300ページぐらいかな」
「読めるの?」
「読めますよ。というか読みました」
「マジで? 申し訳ないけど俺には絶対ムリだね」
「どうかなあ。シリーズものだし、一作目の『姑獲鳥の夏』から順々に慣れていけば大丈夫ですよ」
いやあムリムリ。目尻に皺が浮かび、白い歯並びから光が零れる。この顔はポーションだ。RPGにおけるHPを回復させる効果を備えている。
「その京極って人の小説、どんな感じ?」
さすがに雀鬼流の適用外だ。レンゲでスープを掬いつつ考えを巡らせる。
「戦後間もない頃の日本が舞台で、奇妙な事件が続けて起こる。複雑に絡み合った謎を主人公の古書店主が解きほぐしていく、みたいな」
「難しそうだね」
「勉強になることも多いですよ」
たとえば、と記憶の底を掘り起こす。675ページ。こんなセリフがあった。
「わかるなあ。いや、俺べつに善人じゃないけど」
「わかりますか」
「物価高とかインボイスとか納得できないことだらけだよ。でも世の中にはもっときつい状況で耐えている人がいる。それこそ世界中を見渡せば、いまも飢えている子どもが大勢いるでしょ?」
「ええ」
「だから俺みたいなモンが不満を言うのは贅沢じゃないかって歯止めを掛けちゃうんだよ」
「私も同じです。最低賃金にサービス早出。担当じゃない棚への品出しもするし、人手が足りないとほぼ一日レジへ入り続ける」
「そりゃしんどいな」
「でも仕事があるだけで、好きな本に囲まれて働けるだけで恵まれている。そもそも現代の日本に生まれただけで。そんな理屈で耐えてしまう。けどそれって」
「おかしいよな。幸福の基準は誰かと比べてどうこうじゃなく、自分が何を感じるかなんだから」
京極さんの本、いつか読むよ。その時は本屋さんの店で買うから。店主さんの一言がエリクサーと同じ効能をもたらした。おかげで駅まで歩く身体が軽い。戦場の異なる同志。こういう繋がりを大事にしたい。