ハードボイルド書店員日記【89】
「あ、先輩なら知ってるかな」
月曜の午後2時。荷物もお客さんも疎らだ。仕入れ室のPCで先週の売り上げをチェックする。後ろを通り過ぎた文具担当のアルバイトがムーンウォークで戻ってきた。「何?」「文教堂の赤坂店って閉店するんですか?」「次の金曜でラスト」「やっぱりかあ。ツイッターのフォロワーがそんなことを言ってて」「俺はあそこで村上春樹『風の歌を聴け』の英訳版に出会い、英語で小説を読む面白さに目覚めた」「その話、7回ぐらい聞いてます」呼び出しのベルが鳴り、大股でレジへ向かった。
共に戻る。彼も今日はやることがない。「あのエリア、書店がなくなっちゃいますよ」「『双子のライオン堂』が健在だ」「あ、そうだった! 面接に落ちまくってうんざりしてた2年前の真夏日に行きましたよ。靴を脱いで上がるんですよね」「普通にマンションの一室だから」「静かで涼しくて、しかも重厚な本の群れに囲まれて。落ち着きますよね。頭と心の凝りがほぐされました」本屋発の文芸誌「しししし」の発行元としても知られており、店主は「めんどくさい本屋」という本を出している。
「文教堂といえば、ぼくは浜松町店が好きでした」「2年前に閉店したな。文庫の品揃えがユニークだった」「あの時もへこみましたよ。文学フリマの帰りによく立ち寄った思い出の場所なんで」「東京流通センターの第一展示場か。浜松町からモノレールだな」「フリマとか行くんですか?」「読書メーターで知り合った人が参加している同人誌を買いに行った」「ぼくは二次創作をしている友達のブースを手伝いに何度か」彼は一昨年に専門学校を卒業した。コロナの影響で編プロの内定が取り消しになり、ここで働きながら就活をしている。いつか若者向けの文芸誌を創刊したいらしい。
「先月は東京駅の中の三省堂が閉店しましたよね」「神保町本店もだ。1日に小川町で仮店舗がオープンしたが」「北千住の紀伊國屋書店もいつの間にかなくなってて。不思議だったなあ。いつ行っても混んでたのに」「あれは百貨店が……いや」同じ業界に長くいると各方面に知り合いが増える。必然的にオフレコの情報が入り易くなる。真偽を確かめる術を持たぬゆえ、迂闊に口にはできない。
「ここもいつまで続くか怪しくないですか? 大きい会社じゃないし、実際こうして暇だし」「まあな」土日のシフトに入ってみろ。喉から出掛かった。「そう考えると、書店って働き手にとっていい職場とは言えませんね」返す言葉もない。「先輩はずっと本屋で働くんですか?」「おそらく」「ぼくよりずっと本好きですもんね。しかも作家志望。あと本が安く買えるし」「ああ」社員割引は使わない。でもその決意へ至る経緯を話すのが面倒なのでスルーした。「『本屋という文化を守りたい』とも言ってましたよね。そういうのリスペクトですよ」リスペクト? 腹の底から欠伸が込み上げてきた。
「俺が書店員として働くいちばんの理由を教えようか?」「ぜひ」涙目で席を立ち、下部がへこんだ事務所のドアを開けて売り場へ出る。
「これだよ」PCの前へ戻り、手にしたものを見せる。創元SF文庫から出ている田中芳樹「銀河英雄伝説」の1巻だ。「何巻か忘れたが、あるキャラクターがこんなことを言っている」本をキーボードの脇に置き、顔を上げた。学生時代から諳んじている。「心得違いをするなよ。おれたちは伊達や酔狂でこういう革命ごっこをやっているんだ」
星野某に似た端整な顔が固まっている。何を言うべきか逡巡している。「結局はそれに尽きる。小説家になりたいとか本が好きとか社会貢献とか公のために何かしたいとか、意識的なモチベーションは数多い。だが根っ子を形作る無意識化の判断基準はシンプル。『どっちが自分にとってカッコいいか?』だ。いい歳になっても若い頃と同じ夢を追うプロセスは、とどのつまり妥協なき、いや時折は妥協し得るその問いへの回答の繰り返しだと思う」
この種の「ぶっちゃけ話」をすると、相手のリアクションは混ぜ合わす前のジンとベルモットに二分化される。彼がいずれかは明かさない。
ともあれ私はピュアな理想に燃えるだけの聖人君子ではない。もちろん世の中から称賛されるために書店で働き、本を読み、レビューや小説を書いているわけでもない。
無論ある程度のお金は必要だ。でも大金や名誉は違う。ない方がいい、とまでは言えないが、なくてもいい。少なくとも優先順位のトップではない。
だから何度負けても諦めない。報われなくても惜しまない。勝った記憶はあまりないが、おそらく勝っても終われない。驕らぬカッコよさと這い上がる心意気を忘れぬ限り。
つまりこういうこと。
思い出の本屋が、大切な職場が世の理不尽さゆえにどれだけなくなろうとも、同じく非合理な「伊達と酔狂」の炎を消すことは決してできない。