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ハードボイルド書店員日記【216】

東京メトロ銀座線・日本橋駅。

車両へ乗り込む。なかなかの混雑。ラッシュ時ではない。すでに師走も半ばと改めて認識する。トートバッグから買ったばかりの本を取り出そうとし、眉間の辺りに視線を感じた。顔を上げる。知っている女性が目の前に座っていた。

「先輩、お久し振りです」
「久し振り」
かつて同じ書店チェーンの契約社員として共に働いている。やがて彼女は結婚し、埼玉の方へ引っ越しをした。通うのがきつくなり、住居から近い店舗へ移ることを希望し、認められた。しかしあそこは数年前に閉店したはずだ。
「いまも本屋で?」
「いえ。先輩は?」
「ずっと書店員。職場は移ったけど」
「他の支店ですか?」
「別の会社」
特に親しくはなかった。ゆえに話題があるようでない。

三越前~神田。

「チャゲアス好きでしたよね?」
「ああ」
正しくはいまも、だ。尤も、彼女は現在の私を知らない。過去形を用いて決めつけを避ける行為は、むしろ誠実さの表れだ。
「少し前に思い出した曲があるんですけど、タイトルをどうしても」
「どんなメロデイー?」
数秒間のハミング。
「『if』だな。シングルが1992年7月に発売されてる」
ふふ、と笑みをこぼした。
「すごいですね。相変わらずの記憶力」
「好きなテーマにしか発動しない」
「あの人みたい。何でしたっけ? スタンダール」
「『赤と黒』のジュリアン・ソレル」
「意識してます?」
「あれだけの美貌と能力を備えていたら、もっといい暮らしをしてるよ」
彼女は海外文学をこよなく愛していた。あえて過去形。

末広町。

重苦しい空気を跳ね除けるように、彼女は長い黒髪を掻き上げた。左手の薬指が視界に入る。気づいたことに気づかれたと表情から察した。
「そうなんです」
言葉が出ない。
「曖昧な状態を許せなくて。何でもちゃんとしないと気が済まないんです」
たしかにそういう面はあった気がする。記録的な大雪が降った日の夜。なぜ閉店しない、従業員が帰れなくなってもいいのかとテナントマネージャーを問い詰める姿に頼もしさを感じた。

車両がかすかに揺れる。彼女は支えるように右腕を伸ばしかけ、すぐ引っ込めた。
「最近面白い本はありますか?」
「そうだな」
安堵する己に後ろめたさを覚えつつ、頭の中を探し回った。あるいは理不尽な罪の意識から逃れるために。

上野広小路。

「これはどうだろう?」
購入したばかりの「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年」(新潮文庫)を見せた。
「あ、サリンジャー」
「読んだ?」
「いえ文庫化を待ってました。あれ? でも先輩はたしか単行本を」
「読んでる。けど買ってしまった」
「ふふ」
「たぶんこの辺りに」
記憶を頼りにページを捲る。見当たらない。背中へ汗が浮き出す。諦めるなジュリアン・ソレル。おそらく会う機会はもうない。いまやらずにいつやるのだ。

あった。267ページ。こんな文章が記されている。

完璧であれなんて、だれもいってないよ。理想と完璧はまったくちがう。「理想」というのは人類の幸福のために大昔からずっと取っておかれたものなんだ! ぼくはそれを、希望に満ちた、理にかなったゆるさと呼びたい。ゆるさ、ぼくはこのささやかな、ゆるさが大好きなんだ。

「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年」 新潮文庫 
J.D.サリンジャー著 金原瑞人訳 267P 


上野。私の降りる駅だ。

「話せて嬉しかったです。サリンジャー、読みますね」
「ぜひ」
「またいつか」
微笑みに手を振り、車両から一歩踏み出す。ドアが閉まった。振り向く。スマートフォンを覗き込む後頭部が見えた。

階段を上り、自動改札を抜け、人混みの隙間を縫ってJRのホームへ向かう。小声で数十年振りに「if」を歌いながら。

どんなもしもが 君の未来に わりこんでも かまわないさ 僕はずっと味方さ

「if」 CHAGE&ASKA 作詞・作曲飛鳥涼 

お互いマイペースでやっていこう。

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