ハードボイルド書店員日記【203】
「政治の本、ここに出てるだけ?」
人手不足の平日。突休(とつやす)がふたり。レジカウンターを抜けられるのはわずか一時間。入荷量から判断すると、昼休みを短縮しなければ品出しが終わらない。
自分も他者も同じ人間。誰かに推奨できない働き方を己に許す局面が人生に皆無とは思わぬ。だが明らかにいまではない。
補充分を該当する棚へ差していく。
窮屈に詰めるとお客さんが取り出せない。本を傷める原因にもなる。ハンディー型のターミナルで売り上げデータを確認し、二冊抜いた。返品の基準はジャンルによって異なる。めったに動かないが専門店として棚に残すべきものも存在する。そういう名著はちょっとしたきっかけで回り始めるケースが珍しくないのだ。
白髪の男性に声を掛けられる。初めて見る顔だ。
「単行本はそうです。文庫や新書は専用の棚に」
「全然足りない。自民党総裁選が近いんだから」
「申し訳ございません」
頭を下げた。形だけ。
「○○さんの関連書が少ないね。もっとたくさん置かなきゃ」
足りないと指摘したかったのは「政治の本」ではないらしい。
「あなたも読んで勉強した方がいいよ」
「覚えておきます」
一分後まで。頭のなかで付け加えた。
日本史の棚へ向かう。手が止まった。注文して差しておいたものがなくなっている。店長か他の社員に返品された? いやあり得ない。買い切りだ。万引きじゃなければ売れたに違いない。
「あれ? おかしいな」
先ほどの老紳士が隣で太い首を傾げている。
「何かお探しですか?」
「江戸の選挙がどうとかって薄い本。先週ちょっと覗いた時はここにあったんだよ。タイトル何だったかな」
親近感が沸いてきた。
「よろしければサービスカウンターまでご移動願えますか?」
「お探しの書籍はこちらかと」
椅子に座ってもらい、PCのキーを叩く。「「江戸の選挙」から民主主義を考える」(岩波書店)のデータを呼び出し、画面を彼の方へ向けた。著者は柿崎明二(かきざき めいじ)。元・新聞記者で首相補佐官の経験もある。
「そう、これだよ。ないの?」
「昨日売れてしまいました」
「他の店舗は?」
「データ上では△△店にかなりの在庫が」
フロアを複数持つ大型店は強気だ。街の書店で働いていた頃のしくじりが脳裏を掠める。とある岩波新書が素晴らしかったので店分で二冊注文し、「返せないんだから無茶しないで」と店長に窘められたのだ。
仕方ないねえ。苦笑交じりに呟かれた。
「帰り道だから途中下車してそっちで買おう。売り時なのに切らしちゃダメだよ」
「申し訳ございません」
今度は素直にそう思った。彼はおそらく岩波書店の本が返品不可であることを知らない。だが見解には一理ある。たしかにいまなら二冊ぐらい入れても良かった。店長や会社に遠慮し過ぎた。あるいは苦い記憶が邪魔をしたか。
「まあでも、近くの×××書店には置いてすらなかったからね。あなたが仕入れたの?」
「はい」
「読んだ?」
「読みました」
「どうだった?」
「選挙で指導者を決めるシステムは欧米からの輸入ではなく、江戸時代の村にすでに存在していた。しかも幕府の命令ではなく、村人たちが自発的に設けたものだった。この事実を知ることができただけでも有意義でした」
あとは、と記憶を探る。57ページに書かれていた一文を諳んじた。そこにはこんな一文が記されているはずだ。
どうかなあ。日焼けした両腕を組んで唸る。
「能力もないのに親の七光りで、というのが問題なのはわかるよ。政治に限った話ではなく」
「ええ」
「ただ世襲的なものを全否定するのも乱暴じゃないか? ぼくはサラブレッドへの英才教育が無価値とは思わないよ。生まれに幻惑されず、力の程度や人間性をフェアに見極める目を選ぶ側が有していればいいだけだ」
「家柄に関係なく、各々が適性や能力に見合った働き場を得られる。少なくとも勝ち取るチャンスを平等に与えられている。難しいことはわかりませんけど」
「うん、そういう社会がいいね」
支持する党や政策が異なる。だからといって全く相容れないとは限らぬ。せっかく人が接客する以上、書店でこういう話を少しできるぐらいの時間的余裕はあっていい。本について語り合うこともまた読書の一部なのだ。