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間違い

いつ生まれ、いつ死ぬか、何をどう感じるか、人は選べない。

認識自体が意識に伴う機能でもある。

認識に翻弄され、認識に苦しみ、認識を求め、認識に幻滅する。
仏教で云う、苦諦、集諦という迷妄の輪廻転生という事になる。

だが、それでも、殆どの人が認識の成就と保守に人生を賭ける。
それが長くは続かないとしても、むしろ儚さを愛して止まない。

それは間違いなのだろうか。

なるようにしかならない。運命に抗うのは愚かしい。
だが、誰がそれを間違いだと決められるのだろうか。

仏教は無我を説き、空性を説き、悉有仏性を説く。
悟りの有無こそあれ、全ての姿がそのまま法である。

つまり、法身でないものはない。

認識を含めたその姿が、運命の人としての生き様。

間違いなどない。

達観せず、認識を求めるのも、認識に殉じるのも、
バラバラと歯が抜け落ちるように全て失うのも法の姿。

占術家は、達観し 悟り澄ましているようでは占術家ではない。

環境、感性、頭脳、固定観念、理解の程度を受け容れなければ、
窮地を救い、希望を与える事はできず、背中を押してやれない。

今、何を求めるかは本人が決める。

あらゆる要求に応じる包容力と度量、理解がなければならない。
今、その人が求めている次元に応じる事ができなければならない。

認識以前の摂理から、認識世界の幻想を出入りするほど自由な度量と、
まやかしに支配されない、事実に基づく判断ができなければならない。

想像火傷、甚だしいと思い込みで人が死ぬように、
妄想や、まじないが、人の命を救う事だってある。

いつまでも認識で、無縄自縛し続けていたい者もいれば、
認識を用いず、任運自在に徹し 悟達に至る者だっている。

これが正しく、それは間違っている。

こんなのは通用しないのが 人間の置かれた状況であるという理解、
それがなければ運命学など何の役にも立たない"こけおどし"になる。

運命は宗教や道徳以前にある。

故に、偏見は判断を歪める。

対象だと思っているもの全て、自らの姿なのだから。