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貝多羅葉(ばいたらよう)
2021年12月28日 16:39
修業することはだいそれた事ではありません。まず始めに考え方とものの見方を正しくしなければなりません。修習の柱となる原則すなわち身体の振る舞いと口での振る舞いを正しくすることから始めます。その後に心のあり方を正しくするのです。その在り方は八正道と呼ばれ三つのグループに分けられますまず始めに正しく考えることが出来、正しくものごとを観えるようにならなければなりません。正しく観ることをサンマーデッテ
2024年7月5日 00:19
(①続き)八聖道の一つ目は正見(サンマーディッティ)です、理解することの原則とです。ルアンポーが先ほど話したことですが、世間で生活する為には業の法則を理解する必要があります。世間から解脱する為に修行すること、それは四聖諦(ししょうたい)を学び解脱するということになります。正見は二つの大きなグループがあります。一つ目が業について、もう一つが四聖諦についてです。 私たちは原因と結果という言葉を知っ
2024年7月6日 01:14
(②続き)ある人は毎日毎日、世の中の楽しいことを探す事に夢中になっていて「修行を長い間やっているのに、何故解脱出来ないのか!」と文句を言うのです。なぜそうなってしまうかというと「考え方」が正しくないからです。考えるならば世間から離れて、欲から離れて考えなければなりません。中には誰かに怒りを向けることを止めようとしない人もいます。苦から解脱したい、涅槃に入りたいのならば怒りを携え続けてはいけません。
2024年7月6日 12:29
(③続き) 次は身体と口での行いを正しくしなければなりません。私たちは「口での行いを正しくしているか?」自分自身を調べなければなりません。サンマーワーチャー(正語)は正しく言葉を話すことです。嘘をつかない、人を騙さない、他の人を仲違いさせるような言葉を使わない、汚い言葉を使わない、意味のない無駄な言葉を発しない、意味のない無駄な言葉とは、現在では口だけではありませんよ。指での行いも含まれるのです、
2024年7月7日 02:31
(④続き) 話す言葉を正しくしたなはらば、次は行いを正しくしなければなりません。正しい行いとはサンマーカンマンタ(正業)の事です。行うことは何であれ正しく行うということです。生命の命を絶たない、他の生命に危害を加えない、自分自身を含めた生命に危害を加えないことが戒なのです。自らの命を絶つことこれは戒を破る事になります、なぜならば自分自身も同じように生き物の一つだからです。自分自身を殺すことは生き物
2024年7月7日 21:42
(⑤続き) その次に私たちは自分で自分の生活を養わなければなりません。生活の糧を正しく得なければいけません。生活を正しく養う、それは自分自身を圧迫しない、他の人を圧迫しないということです。ある職業は自分自身を圧迫してしまいます、またある職業は他の人を圧迫してしまいます。そういったものから離れるのです、誠実なことで生活の糧を得るのです。裕福にならなくても構わないのです。財産を世に沢山持っていなくても
2024年7月9日 14:50
(⑥続き)これが生活し生きていくということなのです。話すこと、行うこと、生活の糧を得る事、これらは全て八正道に入っている事です。もしもこれらの事を無視してしまうのならば修習(バワナー)は上手く行きません。生活の糧を悪いことで得ているのならば、止められるのならば止めるのです。ある人は魚の生け簀(す)やエビの生け簀で生活している人もいます、これは他の生命を圧迫していることです。鶏や牛を殺し精肉にするた
2024年7月12日 23:42
(⑦続き)もしも私達に天耳通(てんにつう)、天眼通(てんげんつう)、あるいは宿命通(しゅくみょうつう)、誰かが死んでどこに生まれ変わっのか判る能力があるならば、次の生の生まれ変わりを恐れ、悪行をしなくなるのです。ヒリオタパが生じてくるのです。業の法則を非常に敬うようになるのです。悪業を行うことを恐れるのです。悪行を行うことを恥じるようになります。そして悪行の結果を恐れるようになります。そしてヒリオ
2024年7月15日 00:18
(⑧続き) ですから私たちは生活する上で口から発する言葉を清らかにしなければなりません。振る舞いを清らかにしなければなりません。生活の糧を得る方法を良いものにしなければなりません。いずれかに欠陥があると修習(バワナー)は上手くいかないのです。ひどく躓いてしまうのです。間違ったものの見方のままであればある程、誤った思考を引き起こし、良いものは全く得られずたいへん深刻なことになってしまうのです。仏陀が
2024年7月17日 00:29
(⑨続き) 私たちは 基礎となるものを良くしたのならば、次にすべきことは「心」のことです。修習(カマターン)は心に対して為すべきことです。修習とは正しく努力することです。サティ(気づき)を正しく持つこと、サマーティ(集中)を正しく持つことです。 正しく努力するとは私たちが法の実践を何の為にするのか知らなければなりません。私たちが法の実践をするのは苦(ドゥッカ)から解脱する為です。苦の完全な滅尽の
2024年7月23日 01:04
(⑩続き)七覚支には何があるでしょうか、サティ、タンマ・ウィチャイ、タンマ・ウィチャイとは知恵を高めることです、つまりウィパッサナーを行うことです。ウィリヤ、精進努力すること。ピーティ、喜悦です。パッサッティ、とは心が停止する事。サマーディ(集中)そして、ウぺッカー(捨)です。最後はウベッカーに行き着くのです。ウペッカー(捨)とはルアンポーが言ったように心が定まり中間になることです。心が定まり中間
2024年7月23日 01:28
(⑪続き)もしもブッダが独り涅槃は良いと言い、涅槃に行く方法が無いのであれば、涅槃はただのユートピア(桃源郷)であり理想郷に過ぎないのです。本当のそれを掴むことは出来ないのです。しかし、仏陀の涅槃は本当に到達することが出来るのです、本当に触れることが出来るのです。なぜならば仏陀はそこへの到達のやり方を示してくれているからです。 そのやり方とは八正道です。ルアンポーが説明してきた八正道です。正しく
2024年7月25日 23:16
(⑫続き)ですから私たちはサティをもって身体と心を感じるように努力するのですよ。ルアンポーが何度も言うように法の実践の始まりは感覚を感じる事です。自分自身の身体と心を感じることから始まるのです サンマーサティ(正念)とは四念処の事です。法の実践をある型で行う時、それは心で行う仕事です。カマターン(修習)とは心で行う仕事のことなのです。サティ(感覚を感じる事)からはじめます。身体の感覚、心の感覚
2024年7月25日 23:52
(⑬続き)「善いことと・悪いことはどちらの方が行いやすいですか?」と質問した人が以前いました。ほとんどの人は「善いことの方行うのが難しい、悪いことの方が行いやすい」と答えるでしょう。そうでしょう?しかし仏陀はそのように答えていません。仏陀は「善い人は善い行いをしやすい、悪い人は悪行為を行いやすい」と答えたのです。これは自分次第なのです。私たちが集めてきた業が法則によってその様になるのです。 で