貝多羅葉(ばいたらよう)

タイ仏教の法話翻訳や瞑想会、気が付いたことメモです。よろしくお願いします

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マガジン

  • アナパナサティ(呼吸瞑想)

    アナパナサティ・呼吸瞑想関する記事をまとめました

  • 自分自身の心を読む  ルアンプー・プラモート師

    今日、ルアンポーは 仏陀の教えの全てを伝えます もしもこの法話を聞き理解したのならば ダンマの全てを理解したことになります 仏陀の教えのダンマをすべて理解したことになります

  • タイ仏教のお経のページです

    タイ仏教のお経をテーマにしたまとめです。 お経はパーリ語で唱えられています

  • 八正道 ルアンポー・プラモート師

    仏歴2560年10月24日の法話より

  • 個人的な話の入れ物です

    その時々で感じたこと、考えたことを脈略もなく綴ったものです。よかったら覗いてみてください。

最近の記事

慈悲(メッター)とは理解すること

先日、気づきのサーラーを運営されている浦崎雅代さんの法話会(気づきのサーラー)でスカトー寺のお坊様であるサンティポン師とご質問者さんのやり取りで慈悲について大変心に響くものがあり忘れないうち書き残しておこうと思ったものです 慈悲の瞑想は仏教瞑想を実践する人にとってなじみになっているかもしれません。慈悲を自他に向けて念じるのです 私は幸せであります様に 親しい生命が幸せであります様に 生きとし生けるものが幸せであります様に(テーラワーダ協会) しかしすっきりとしない心の壁

    • ⑫自分自身の心を読む ルアンプー・プラモート師

      (続き)自分自身の心を観察し どんな煩悩であれ生じたものに気づきを間に合わせ すると 煩悩は瞬時に滅するのです 私達に怒りが生じたのならば そのことを知るのです 欲が生じた 浸り込みが生じた それに気づきを間に合わせるのです 私達に生じるサティが生じた瞬間に  欲や浸り込みも瞬時に滅するのです サティとは知ることを間に合わせる働きなのです 自分自身の心に気づきを間に合わせることは 心に生じた煩悩を消滅させます サティが生じている間は 新たな煩悩は

      • ⑪自分の心を読む ルアンプー・プラモート師

        (続き)これらは八正道の事なのです 私達が理論を知ること つまり 苦(ドゥッカ)を知る事は 苦の原因を洗い流す(集諦:サムダヤ) 二ロート(滅諦)によりはっきりと観ることは (解脱への)道を高める この見方をすることが正見(サンマー・ディッティ)です 私たちの考えの裏側に隠れていることを知る事 これを正思惟(サンマー・サンカッパ)と呼びます 八正道の2つ目です 自分自身の考えることに気づきを間に合わせる事 すると口から出る言葉も善いもののなります こ

        • ⑩自分の心を読む ルアンプー・プラモート師

          (続き)心の状態を知ることが出来なならば 次の段階は話す言葉は善くなるのです それを 正語(サンマー・ワーチャー)と呼びます 例えば私たちが他の誰かに文句を言ったり 嘘をついたり騙したりするとき その後ろには 貪欲・怒り・無知が隠れているのです しかし 私達の心が 貪欲・怒り・浸り込みに覆われていない時には 話す言葉は 慈悲(メッター・カルナー)で話され 誰も傷つけようとはしないのです 誰も騙そうとは思わないのです 私達の普段の生活も 戒のある

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        • アナパナサティ(呼吸瞑想)
          3本
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        記事

          他の人も自分の人生を愛している メーチー•ジュン師

          私達が 自分の人生を愛しているのと同じように 他の人もそれぞれに自分自身の人生を愛していいるのです 自分が嫌な気持ちになりたくないように 他の人も同じように嫌な気持ちになりたくないのです ですから 自分が嫌なことは 他の人にしてはいけないのです このことをコントロールするのです すると 心の力が少しつ高まっていくのです 戒・サマーディ(定:正しい集中)・智慧 戒を守る事が流れ 徐々にそれが性格になっていくのです 仏歴2567年11月17日

          他の人も自分の人生を愛している メーチー•ジュン師

          ルアンポー・ルーシーリンダム師

          落ち着きの無い心を解決する方法で どんな落ち着きの無さが生じているかは 重要な事ではありません 私達が使うやり方は 仏陀が教え推奨したやり方です それは アナパナサティ・カマターン(呼吸瞑想修習)だけです しかし もしも 唱えることが好みならばそれを使っても構いません アナパナサティは 呼吸の出入りを見定めます 呼吸が入る時には「呼吸が入った」と知ります 呼吸が出ていった時には「呼吸が出ていった」と知ります 呼吸が短いか長いか、それを知るのです

          ルアンポー・ルーシーリンダム師

          ⑨自分の心を読む ルアンプー・プラモート師

          (続き)私達は自分自身の心を観察し続けるのですよ 私たちに 湧いてくる考え 口から出る言葉 行う行動 の裏にあるものが 善(クソン)なのか不善(アクソン)なのか に気づきを間に合わせるのです もしも 考え事の裏にあるものが善(クソン)であるならば 口から出る言葉 行う行動は善(クソン)なのです しかしもしも 考え事の裏にあるものが不善(アクソン)であり 欲・怒り・無知ならば 口から出る言葉わ悪いものになり 行う行動は悪いものになるのです 生活

          ⑨自分の心を読む ルアンプー・プラモート師

          ⑧自分の心を読む ルアンプー・プラモート師

          (続き) 実践の方法について仏陀は 苦諦は苦であることを知る事 集諦(サムダヤ)は洗い流し 滅諦(二ロート)は涅槃ではっきり観る事 道諦(マッガ)は心を高める事 これは四聖諦にある私たちがなすべき責任です この実践方法で 自分自身を直接観察するのです 心が飾り立てられるところからです 私たちの心は考え事が好きです 考え事の裏に何が隠れているのか 観察するのです それは善(クソン)なのか不善(アクソン)なのか 知ることを間に合わせるのです 私達に考え

          ⑧自分の心を読む ルアンプー・プラモート師

          ⑦自分の心を読む ルアンプー・プラモート師

          (続き)道を高める事には8つの道があります まず正見(サンマー・ディッテイ)から始まります ルアンポーはこの正見の柱となることについては既に説明しましたね それは 私達には苦(ドゥッカ)があるということ そして 苦(ドゥッカ)を知る事に気づきを間に合わせなければなりません なにかしらを愛でたり あるものをを忌み嫌ったりしてはいけませんよ もしも 何かを愛着するならば 「それが欲しい」 「それになりたい」と 思うのです もしも 私達が”それ”を忌み

          ⑦自分の心を読む ルアンプー・プラモート師

          ⑥自分の心を読む ルアンプー・プラモート師

          (続き) ではどうすれば「欲しい」という欲が滅するのでしょうか 「欲を滅する」ということは「渇愛(タンハー)」が滅するという事です つまり”道”を高めるという事なのです 苦諦(ドゥッカ) 集諦(サムータイ) 滅諦(二ロード) 道諦(マッガ) 私達は道を高めるのです 私達の道諦が高められ十分になったのならば 「苦の滅尽」が生じるのです そして 完全に苦(ドゥッカ)から解脱します このことを滅諦(二ロード)と呼んだり 涅槃(二パーン)の呼んだりします

          ⑥自分の心を読む ルアンプー・プラモート師

          ⑤自分の心を読む ルアンプー・プラモート師

          (続き)「欲する」という欲が生じたならば 私達の心はもがくのです そして ”欲”が生じる度に 心の静けさ安楽が壊れ 無くなってしまうのです ここまで 私達は苦(ドゥッカ)について学びました 苦には 身体の苦と心の苦があります そして 私達の最も高い目的は苦から解脱する という事です そして苦は「欲」から生じる という事です では どうすれば私達は この「欲」を滅することが出来るのでしょうか(続く) 10:34~

          ⑤自分の心を読む ルアンプー・プラモート師

          ④自分の心を読む ルアンプー・プラモート師

          (続き)ある欲が生じて過ぎ去ったとしても また別の欲が湧いてくるのです ですから私達の心は その動き回る欲に振り回され疲れ果ててしまうのです 終わりの無い欲に従おうとしているのです 仏陀は「欲の扱い方」について教えられました 渇愛(タンハー)を厳格に取り扱う方法です 欲に従うことは問題を完全に解決する手助けにはならないのです あれが欲しくなり 暫くすると 別のそれが欲しくなるのです 仏陀は私達に「欲の全てを観る」ということを教えられました どんな欲も

          ④自分の心を読む ルアンプー・プラモート師

          ③自分の心を読む ルアンプー・プラモート師

          (続き) もしも私達が心の苦(ドゥッカ)を解決できたならば 残るのは身体の苦です 殆どの場合 身体に苦が生じると 心も同じように苦が生じるのです 苦が二重に重なっているのです 身体の苦と 心の苦があり 心の苦は何処から生じるのでしょうか それは「欲しい」という心です これを渇愛(タンハー)と呼びます 私たちに欲しいという欲が生じた時 私たちの心は悶え動き回るのです そして苦(ドゥッカ)が生じます 普通の人々はこの部分が観えていないのです 彼らが見

          ③自分の心を読む ルアンプー・プラモート師

          ②自分の心を読む ルアンプー・プラモート師

          (続き)苦(ドゥッカ)と呼ばれているものは 身体の苦と心の苦に分けられます 身体の苦は私達が生まれた時から 逃れることは出来ません 老いる事 病気になる事 死ぬ事です そして 心の苦(ドゥッカ)は ダンマが私達をこの瞬間に手助けしてくれるのです ブッダは指し示して下さいました 心の苦 例えば 私たちが好まない人々に出会うこと それは苦をもたらします あるいは 私達が愛する人と 別れなければならない事は 苦をもたらします 私達があれやこれや

          ②自分の心を読む ルアンプー・プラモート師

          ①自分の心を読む ルアンプー・プラモート師

          最近は中国人の修行者が沢山来ています 彼らは学ぶことが出来る時間が限られています 一人滞在できる日数は数日しかありません 一つづつ学んでいくならば 学び終わる時間がありません ですから 今日、ルアンポーは 仏陀の教えの全てを伝えます もしもこの法話を聞き理解したのならば ダンマの全てを理解したことになります 仏陀の教えのダンマをすべて理解したことになります 四聖諦のダンマも理解したことなります 四聖諦は私達に対し 苦(ドゥッカ)とは何か というとこ

          ①自分の心を読む ルアンプー・プラモート師

          私達は何のために生まれてきたのか? ルアンプー・プラモート師

          ある人は 何故生まれてきたのか?と問いかけます しかし 何故生まれてきたかはどうでも良いのです 本当は 誰にも目的があるのです それは 自分自身の心を高め 苦(ドゥッカ)から解脱できるようになる ということです なせ私達は このように苦を咥えながら人生を送らなければならないのでしょうか あたかも常に口の中に病気を抱えているので 常に不便を強いているようなものです しかし 私たちは幸せな人生を送ることが出来るのです 仏陀の教えを聞く人は誰であれ

          私達は何のために生まれてきたのか? ルアンプー・プラモート師