10/4-10/7の4日間、神戸へ帰省した。昨年末インターンとしてお世話になったwebメディア「soar」が神戸で行う活動説明会をお手伝いする為だ。 会場である「はっぴーの家ろっけん」はちょっと不思議な高齢者施設。ちなみに僕にとっては"実家"。帰省するとここで寝泊まりさせてもらってる。 夕方過ぎに到着すると、認知症のヨネ爺はフロアをウロウロし、星ばあちゃんは朝から晩まで同じ席で新聞紙を折ってゴミ箱を作ってる。どこかでおばあちゃんが騒がしい子どもたちにブチギレている声がする
直線と曲線の間 阪急電車に乗った時、ふと目に入った夫婦の喧嘩。おばさまが、旦那さんを、言葉でぐいぐいと押し潰すように卑下していた。周りの目を気にして旦那さんは「静かにして」と言うけれど、その卑下の言葉が止まらない。「パンチラインがR-65指定だ!」と心で突っ込むが笑いきれなかった。言葉が、車両の隅から隅まで響いて、まるで音楽のように散らばる。 そんな光景を見て、ふと思った。昔から、張り詰めた空気が苦手だ。図書室の静けさ、オフィスの無言の圧力。みんなが息を潜めているような空
「犬に腕噛まれたらな、すぐに引っ張ったらアカンで!逆に喉元に押し込むねん!そしたら“おえっ”なるやろ?ほんなら噛むのやめよるねん。覚えとき!」 小学生の頃、近所のおっさんにアドバイスをもらったことがある。「犬に腕噛まれることなんてないて」と思っていたが、授業中に校舎のグラウンドへ犬が迷い込んでくるたびそのアドバイスを思い出していた。「いちいちおっさんのこと思い出すん嫌やねんけど」と心の中でツッコむがそれはもう条件反射である。(脚注:そもそもなんで学校に犬が迷い込んでくるねん
「若いね」「今が一番楽しい時だね」「まだまだなんでもできるよ」っていつまで言われるんだろうか? 20代の頃、1人で初めましてのコミュニティに飛び込み始めた時。 自己紹介の流れで年齢(当時は20代前半)を伝えると、「えー、すごい!」「若いのに行動的!」とよく褒められた。大学生の頃までは「同級生」が中心としたコミュニティで育ち、一般的な社会に出れば「同期」と呼ばれるおおよそ同い年が周りに揃う。 大学を卒業してすぐは同級生の同期がいたが、退職してフリーターになってからは異年齢の
この前、「真面目で繊細な人は、この世の中は生きにくいから、気にせず生きろ」と言われた。確かにその通りだと思う。(自分が「繊細だ」と言うのはあまり好きではないが、心の中で理解することが大事だと思う) 数ヶ月前、芸人さん同士がSNSで炎上していた。その時、なぜか自分も心が苦しくなってしまった。自分の中で湧き上がるその感情に驚きつつも、いつもこんな感じだったなと思い出す。 どうしてこんなに悲しいのだろう。 そして「他の人はなんで心が苦しくならないんだろう?」と考える。SNSの世
ある日の夕方。夏の日差しが和らいで、秋の風が吹き出してきた。 冷たい風が頬を撫でる。家へ帰っていく途中、公園に寄って、ベンチに腰を下ろした。 イヤホンはつけているけれど、音楽はかけず、ただ周囲の風景をぼんやり眺めていた。 老夫婦がなだらかな坂道をゆっくりと歩く姿、ベビーカーを押す母親、ジョギングする人々、無邪気に走り回る子供たち。どれもが普段の風景の一部で、なんてことのない日常の光景だ。 でも、最近、何気ない日々の全てが「偶然」によって成り立っていると感じるようになった
退職して2週間があっという間に経ってしまいました。 組織から離れることで、もっと寂しさや後悔が残るのかと思ったけど、思いの外あっさりした心持ちに自分でも驚いています。 意識的に退職後の2週間に予定を詰め込むようにしました。 それは過去の経験上「きっと寂しくなる」と思ったので、先回りをして楔を打つようにしました。成長です。 でもあまりにあっさりしているので「あれ、これで良いのかな?」と逆に心配している毎日です。 「辞めたよ!」と言ったことで色々な人が声をかけてくれます。
情報も興味関心も、広く浅いことがコンプレックスだが、それは強みであると思っている。 地域や何か1つのことに、深くjoinして、いわば人生をbetして、そこに根を張り草木を伸ばし、時間を費やしている人を尊敬している。 でも、人によってはマウントを取ってくる人もいる。 「ここは俺らの縄張りだ」と言わんばかりに、興味を持った人を経験と実績でねじ伏せる。 「お前みたいなもんが、地域とかコミュニティとか語ってんちゃうぞ」と言われると何も言えなくなるが、「興味を持った生活者」であ
「自分は何がしたいのか?」って、いつまで考え続けるんでしょうか? 「やってみないとわからない」が答えであることが多いけど、その「やってみる」というハードルを超えるのが難しかったりしますよね。 間違えるのは、怖いです。 でもハードルを超えたら「あ、そんなものか」と思って次のハードルはトントン跳べたりするものです。 ・ 去年の今ごろ、はやる気持ちを押し殺しながら、MacBookのエンターキーを押していました。 企画の講座、「企画メシ2023」 半年間参加して、自分と
脳はわかりやすさを求める。人は1日に60000回以上思考を続けていると言われている。 男と女とか、できるとかできないとか、白黒ハッキリと線引きした方がわかりやすい。 そしてシンプルさを追い求める。プレゼンのスライドは極力情報を入れ込まない方が良い。60000回も6万回と書いた方がわかりやすい。きゃりーぱみゅぱみゅをきゃりーちゃんと呼んだ方がベロが楽。新しい学校のリーダーズは海外では「ATARASII GAKKO」としているのも覚えて欲しいからだろう。 もしも逐一気になるこ
朝6時の山手線は満員だった。2019年に1年間東京で暮らしていたので、狭い土地に異常な数がいることは知っていたが、肌身で感じると引いた。腹ペコの若い大学生が、地元の食堂でいっぱい食べやとぎゅーぎゅーにご飯を持ってくれるのは嬉しいが、電車の箱の中に知らないおじさんと知らないおじさんに挟まれてぎゅーぎゅーになることは辛い。もう1人知らないおじさんが来て、ぷよぷよみたいに消えてなくなりたいと思った。 7時になりカフェに寄った。10時から予定があったのでそれまで時間を潰そうと思った
2024年5月末をもって、4年ほど勤めた(株)Happyを退職することに決めました。 Happyには、何も武器を持っていなかった自分に対価をいただいていたことに感謝の気持ちでいっぱいです。 忙しくも楽しい仕事に感謝しながらも、同時に、「このままで良いんだろうか?」と問い続ける日々でした。 マクドで現金、二度見する子供2019年末に東京からUターン、キッカケはタニンの葬儀でした。 家族はいないため実家がない=帰る場所がないので、はっぴーの家に居候生活をしていました。
4月1日付でトモダチが東京に旅立った。 俗に言う栄転だ(本人は神戸か大阪が良いと言っていたけど) 東京に行く前に「お別れ会」を行った。 と言っても、「またどうせ会う」と思っているからお別れ会的なことは苦手である。 プレゼントも、 手紙も、 改まった一言も。 「困るんだよね、送別会。だってまたどうせ会うでしょ?」 なーんだ。 やっぱり相手も同じことを考えていた。 〜 そこでふと思い出した。 子供の頃から「寄せ書き」が苦手であるということを。 決して寄せ書きを書
オードリーのオールナイトニッポンin東京ドームをオンライン配信で観た。番組開始15周年を記念したイベントで、東京ドームには5万人を越えるリトルトゥース(番組リスナーのこと)が集まった。 ここ2週間ほど体調を崩し、身体もメンタルも落ち込んでいた。ずっと目標に掲げていたものに興味がなくなり。無気力、虚無感、虚脱感。体調が回復しつつあるタイミングで、気分転換できるような明るい刺激が欲しかった。 大勢のリトルとゥースに紛れ、PPVをする映画館で観ようかと思ったけど、「たぶん、泣い
ある人と、喫茶店でお茶をすることになった。「ここのお店に行ってみたくて」。そのお店は紅茶にこだわりがあるお店だった。紅茶と呼び捨てではなく「お紅茶」とお呼びしたくなる丁寧なお店だった。 たくさんのカタカナが並ぶメニュー。鳥が上空から地上を見たら人はこんな感じなんだろうなと思った。髪の毛の色や服の色の違いはわかるけど、どれも同じに見えているのだろうなと思った。「この一番下の(お)紅茶をください」。一か八か適当に選んでみた。 店員さんが戻ったと同時に目の前の人は言った。 「私
「私、コミュ力高いから」という人がいる。そういう人は、初めて会った人ともフランクに話すことができること。初対面の人がたくさんいる飲み会が好きであること。人見知りをせずにどこでも自分の話をできることを武器だと思っている。そんな人を”コミュ力強者”と呼ぶことにする。 でもだ。 色々な人と関わる中で、上記の理由=「コミュニケーション能力が高い」というのはおかしいのではないかと思うようになってきた。そもそもコミュニケーションとはなんなのだろうか。 つまり、AIが要したものを要す