わかりやすさ

脳はわかりやすさを求める。人は1日に60000回以上思考を続けていると言われている。
男と女とか、できるとかできないとか、白黒ハッキリと線引きした方がわかりやすい。

そしてシンプルさを追い求める。プレゼンのスライドは極力情報を入れ込まない方が良い。60000回も6万回と書いた方がわかりやすい。きゃりーぱみゅぱみゅをきゃりーちゃんと呼んだ方がベロが楽。新しい学校のリーダーズは海外では「ATARASII GAKKO」としているのも覚えて欲しいからだろう。

もしも逐一気になることに引っかかってコケてしまったらたら、膝の骨が見えるくらい傷はズルムケで、いちいち立ち止まっていたら時間だけが過ぎて焼きたてのメロンパンが売り切れてしまう(サンドウィッチマン)。

運動会の時にひく白い線。粉が出なくなったらバイクのウィリー状態で移動して入れ直すあれの名前が出てこない。それはきっとシンプルな名前じゃないからだと考察している。

そんなことを考えるとあれもこれもわからない。走馬灯の語源もわからないし、「走馬灯のようだ」と言い出した人の気がしれない。「一瞬でいろんなことを思い出したわ!」という関西弁を「まるで走馬灯のようだ」って言い変えたやつの知性に頭があがらない。品がありすぎる。絶対ポケットにハンカチ入ってる。ランチは大丸の4階くらいにあるカフェに行ってるに違いない。

「最近、東京では2000円のサラダがブームです!(テレビ)」
「うそやん!高くない?土から芽が出たおっきい葉っぱやのに」
「こちら、日比谷のカフェでは連日大行列です!(テレビ)」
「ばり葉っぱ食うやん!みんな草食系やな」
「健康のために週に一度は来るようにしています!(テレビ)」
「そんなことよりはよ帰って寝たらええのに!」

世の中わからないことが多すぎる。

昔から、みんながみんな笑っているときに、「何が面白いんだろう?」とその理由がわからないことがよくあった。特に、その場の内輪ノリや知っている人しかわからない笑いを、知らないだろう人がいる環境でされると急に冷める。視座が上がる。

反対に、みんながみんな真面目な顔をしているときに、「え、この感じ面白くない?」と笑ってしまう。小学生の時に参加したお葬式の時も、みんなが直立不動で斜め下を向いていたのが面白くて笑けてた。歩きタバコしてる人が信号待ちしてたら「そこはルール守るんかい!」と一人で笑ってしまう。

みんな視点が同じ方向に向いていると感じると、途端に気持ち悪いと感じるクセがある。
だからすぐに視線をズラしたくなる。そしたらそこに可笑しさを見つけてしまって、「こっちが面白いよ」と思うようになる。

それは「文化中毒」という考え方に似ているのかもしれない。
自分自身のやりたいことや使命感が、組織の常識や文化に飲み込まれてしまい、感性や感受性が機能不全になっていくさまを指す言葉。宗教的に視野狭窄しているように感じると、一気に冷めてしまう。そういう環境は心から苦手である。

そんな中でも生きていくため、自分を保つため、生まれ持ったスキルなのかもしれない。

わかるために効果的な行動は、わけるである。
わけるからこそ、わかるようになる。悶々としたときはペンとノートを持ってカフェに行き、わけることを繰り返す。繰り返しすぎて堂々巡りになって、頭がパンクしそうになる。でも、わけるとわかるようになる。
そしてまた、わからないことに気づいて、わからないを繰り返す。

退職をしてからしばらくは休むことにした。
先の場所は決めていない。
要するにわからない。

どこに向かうか、何をしたいか決めているから不安ではない。
だけど、どこでやるのかは決めていない。
その点、わからないから不安である。
自由とは不安を伴うものなので、また新しい不安を得てしまったわけである。

退職してもっと寂しさを感じるかと思っていた。
反対にトニックシャンプーくらいの爽快感を感じるかと思っていた。
でも、今はどちらでもない気分が続いている。どっちかであったら楽なのに、どっちでもないから逆に不安だ。それもまたわけるとわかるようになるだろう。でも今は、それぐらいがちょうど良いと思えている。

ちなみに運動会の時に白い線を引くあれをググってみたら「ライン引き」だった。そのままやないか。そのまますぎて逆に不安になった。他にも「ライン引き系」の道具があるはずなのに「ライン引き」の概念ごと背負ってしまっている。定規には根回しはしたんだろうか。内心「わたしもライン引かせてもらってます」と思いながら暮らしているライン引き系の道具もあるようなきがしてならない。

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