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直線、曲線、不完全

直線と曲線の間

阪急電車に乗った時、ふと目に入った夫婦の喧嘩。おばさまが、旦那さんを、言葉でぐいぐいと押し潰すように卑下していた。周りの目を気にして旦那さんは「静かにして」と言うけれど、その卑下の言葉が止まらない。「パンチラインがR-65指定だ!」と心で突っ込むが笑いきれなかった。言葉が、車両の隅から隅まで響いて、まるで音楽のように散らばる。

そんな光景を見て、ふと思った。昔から、張り詰めた空気が苦手だ。図書室の静けさ、オフィスの無言の圧力。みんなが息を潜めているような空間で、心がきゅっと萎縮する感じ。きっと、息が詰まってしまうんだろう。ああ、思い出すだけでしんどい。

でも、雑踏が心地よい時もある。そこには余計な力が抜ける感覚があるから。ちょっとした騒音があるだけで、細かいことに気を取られずに済むんだよね。あれこれ考えなくていいっていう安心感。人々が行き交う中で、自分も流れに乗っていける気がする。

学校の空気と直線的なもの

「校舎が直線的だから、イジメが起こるんじゃないか?」という話を聞いた。言われてみれば、まっすぐな世界に閉じ込められることで、線引きが生まれてしまうのかもしれない。カーストや上下関係がその象徴っぽい。ハッキリした線があるから、誰かがその中で上に立ち、誰かが下にいる。それが苦しくて、辛い。自分を感じる前に、誰かを感じなくてはいけない、そんな空気がある。

校舎も、机も、教室の並びも、みんなが並ぶ運動会の行進も。「まっすぐ」で統一されてる。それはルールに縛られた世界みたいで、なんだか落ち着かない。自分が少しでも違う方向に行こうものなら、まるでそのまっすぐな線が自分を制限しているように感じる。

もし、学校の教室が円形で、もっと自由にそれぞれが過ごす場所だったらどうだろう?ルールを決めず、その都度話し合って、少しずつ作り上げていくような空間だったら。もしも人々がただ自分のペースで動き、同じ目的を共有しながらも、それぞれのペースを尊重していたら、少しは違ったんじゃないかなって、思う。

不完全な美しさ

理想的な自分をずっと追い求めている。無駄なく、真面目に、感情を抑えて理性を持ち、周りと調和を取りながら生きる。時には、ゴルフやら休日の計画的な過ごし方に憧れてみたり。でも、本当はそっちになりたいと思ってなんてなかった。

不完全な人が好きだ。決めきれないまま揺れている姿、その不器用さにこそ心が動く。言葉を選んで、ああでもないこうでもないと言いながら、ようやく伝わるものがある。その空気が、どこか温かくて、落ち着く。間違ったり、バグが起こるその隙間に、人間らしさを感じる。

完璧を目指す直線的な美しさは、たしかに美しいけれど、どこか冷たさも感じる。けれど曲線的な美しさには、不完全であるがゆえの柔らかさがある。その不完全さが、むしろ自由に繋がっている気がする。自分も、周りも、流れの中で少しずつ変わっていく。それが、なんだか心地よい。

騙し騙しでも歩いていく

社会も人間も複雑だ。だから単純な言葉を、成果を上げた人や説得力のある人が口にするとわかりやすい。声が大きな人やギラギラした強さを持つ人の声を信じやすい。

これはこうだから。ここはこういうものだから。だからこうしなさい。
でもそこに目に見えない暴力性というか、怖さを感じる。
だから萎縮する。自分を縛る枠に収まろうとするあまり、自由を忘れてしまう。

だけど、迷い続け、揺れ続ける中で、自分の本当の声に気づくことができる。答えが見つからないことを怖れず、その揺れを楽しむことが、きっと自分らしい生き方に繋がるはず。曲線的な価値観を持って道を歩みながら、その先に広がる新しい景色を信じて揺れ続けたい。

あぁ〜、めんどくさいなぁ。

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前田 彰
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