たまたま

ある日の夕方。夏の日差しが和らいで、秋の風が吹き出してきた。
冷たい風が頬を撫でる。家へ帰っていく途中、公園に寄って、ベンチに腰を下ろした。

イヤホンはつけているけれど、音楽はかけず、ただ周囲の風景をぼんやり眺めていた。

老夫婦がなだらかな坂道をゆっくりと歩く姿、ベビーカーを押す母親、ジョギングする人々、無邪気に走り回る子供たち。どれもが普段の風景の一部で、なんてことのない日常の光景だ。

でも、最近、何気ない日々の全てが「偶然」によって成り立っていると感じるようになった。

出会う人、働く場所、手にするチャンス。すべてが偶然。「運も実力のうち」と言われるけれど、実際は「偶然」でしかない。今までの仕事だって、人との出会いだって、偶然の一部。

そこに意味を見出す必要なんて、そもそもないのだ。

約3ヶ月のキャリアブレイクという期間は、苦しいことの方が圧倒的に多かった。夜は寝れない日が続いた。昼夜が逆転してこれはいけないと思った。だから日中、行くあてもないのに歩き続けた。それでも眠れなかったりした。社会の中に自分が存在していなくて、頭と心には前向きな活力があるのに、それを発散できる舞台がなくて循環が悪くなった。自由と責任はセットだと言うが、自由とセットなのは不安だと思った。

自分は何者でもないと改めて思った。その上で目の前にいる人もまた何者でもないんだなと思えるようになった。聞いてもいないのにアドバイスをする人や、余計なひと言をいう人は自己承認欲求が満たされていないのだとわかった。一方で優しい人はただ話を聞いてくれたり、寄り添いながら一緒に考えてくれる。そう考えると、いちいち腹を立てるよりも、聞き流すだけで十分だし、なんなら受け止めてあげた方が社会は良くなるのかもしれない。内心「滑稽だな」と思っても自分を許したい(そして他人に聞かれてもいないアドバイスすることは気をつけたい)

もう自己肯定感が低いとか高いとか、自分の機嫌は自分で取れとか、自立とは依存先を増やすことだとか。めんどくさくなってしまった。自分が自分として生きていく。そして自分はただ生きている。自分の機嫌は自分で取るが、不快な事を言われた際は不快であると伝えてもいいのではないか。自律とは依存先を増やす前に、自分の足で立とうとする姿勢があった上で成り立つのではないか。誰かのマウントを取るとか取らないとか、そういう世界から抜け出すのは自分の心の持ちようなのではないか。

そんな事を毎日ずーっと考えていた。

数年後に振り返った時、この経験がこれから出会う人に対して優しくなれる糧になるような気がしている。

世の中は全部、偶然だ。偶然でしか成り立っていない。たくさん行動して、たくさん失敗したり傷ついてきたから今がある。どんな偶然も肯定しながら生きていきたい。

周りの人々の中に、同じように日々の偶然を感じている人がいるのだろうか。そんな偶然が重なり合って、人生って続いている。それを忘れずに生きていけば、たまたまの出来事に振り回されず、少し楽に生きられるのかもしれない。

帰り道、ふと道端に目をやると、見慣れない小さな犬がこちらをじっと見ている。「昔、消費者金融のCMでこんなのあったな」なんてことを考えていると、その犬が突然、飼い主の靴ひもをカジカジと噛み始めた。

可愛い顔をしているのに、その時だけ鬼に見えた。
気持ちばかし早歩きで立ち去ろうと思った。犬に靴ひもを噛まれるなんて、たまたまでも避けたい出来事だ。偶然その瞬間に立ち会った、それだけで、十分なのだ。

「でも、噛まれたら面白いかな」と心の中からつぶやきが聞こえた。偶然を起こすのは行動である。可愛い鬼が歩いていく方向に好奇心をもってUターンした。

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前田 彰
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