「いのち」と言う神と、神々、仏、と今回のコロナ(原本)
A「修正、加筆、変更、など、のお知らせと、記録」
2020/9/14日 関連note及びリンク集を、新しく追加しました。
2020/06/03/ C の内容変更 F 1,2,3 を加筆しました。AとBを入れ替えました。目次を作りました。
Bお断り
このnoteは、おそらく、完成と思われますが、このnoteを載せる基盤としてのnoteを載せております。コロナに関する宇宙規模の問題を取り扱ったnoteで、随時更新していくnoteです。中には、そちらの方から、このnoteを見ている人もいるかも、わかりませんが、ご容赦ください。
C 「いのち」と「ない」と「無」
我々にとって、誰でもが、OKするであろう神は、命と言う神です。
命は、「ある」と言う真の中で、時の支配の下にありますが、存在の上にあります。存在と「ある」と言う真は、同じ意味の様で、厳密には違います。
存在の存には、存ずる、で生きているの意味があり、命の中に、存在があるのです。
確かに、数理の理の様に高度な理に成りますと、命の外にもあるかの様に、思えますが、理自体が、存在の秩序の中でのみ働く理法であり、無秩序の世界では、成り立たないのが、理と言う物であり、たとえば、夢の中では、数が合わなくとも、夢は、存在する世界です。
実は、「いのち」には、「意の智」と「命」があり、「時」は、この「意の智」の下で働きます。
「意の智」の意は、意味の内容そのものであり、智は、智慧の素(もと)に当たるものです。
そして、「意の智」は、「時」を働かせ、「時」を通して、存在の全てを治めており、命は、時を通して、「意の智」から、働く為の「理法」を授かり、その理法を通して、生きる命の全てをを治めています。
他のnoteでも、散々述べておりますが、「存在」に真の意味での「ない」は存在しません。
何故なら、「ない」が存在するなら、それは、「ある」事になり、「ない」ではなくなるからです。
ただし、あると言う世界には、「ない」はない。としてります。
存在における「ない」は、「ない」はないと言う意味として働き、「言葉として働きます。
「ない」と同義の様で異なる物として、「無」があります。
これは、全てがある為に、識別がなく、認識不能となり、あたかも「ない」同様に成る生きた命であります。
D命は、不要なモノは、与えない。
ところで、この命は、存在するモノに、不要な苦しみや不幸は、与えません。
一見、不要に思える苦や、不幸は、たとえば、学ぶ為であり、あるいは、より多くの、喜びを、得るが為に、生じているのです。あるいは、将来の準備の為に、起きているのです。
しかしながら、失敗は、失敗であり、事故は、事故です。それらの様な事は、避けられたはずのものであり、さけられない、方法がなかった等の場合は、何かの必然性から生じているもので、考えるべき時であるのかも、知れませんが、不注意などの、ミスや、事故は、避けられれば、避けたいと思うのは、生きている者に取って、避けたいものです。
その為に同じ間違いを繰り返さぬよう気をつけなければ、ならないのです。
神と言えば、たとえば、宗教ですが、様々な宗教があり、それらが、個々バラバラに、争いあうより、それぞれの宗教の、元々の出所は、何であったか、研究し合う方が、人間社会全体の為に成るのでは、ないでしょうか?
様々な神や、神々も、仏も含め、元々の出所は、ひとつだったはずです。
私は、本元の神について、考え、求め、たどり着いた結果が、命と言う神でした。
そして、「いのち」には、「意の智」の意味があると考え、その結果、以上の様な結論に達しました。
この世は、時の最先端に位置しているはずです。
であるにも関わらず、想像とはかけ離れ、様々な問題を抱え持つ、遅れた社会である事に、私は、違和感を感じておりましました。
ですが、私は、ここは、非常に高度な世界であるとも、感じておりました。それは、あるものが、頑固としてあり、石や鉄は、非常に硬く、又、電気による様々な電化製品や、パソコン、インターネットと、この高度な世界にあって、便利な商品も数々あります。
確かに想像する世界と比べれば、遅れた世界ではありますが、たとえば、デジタル以前からありました、アナログテレビ一つとっても、どうして、人があんな、小さな箱に入っているのだろうと、子供ながらに不思議に感じておりました。
現在、その理屈については、知っていますが、それでも、やはり、当たり前ではありません。
たとえば、それなら、あなたは、ひとりでテレビをつくれますか?
それは、さて置き、この時代は、やはり、時代背景的には、遅れた世界でありました。
ところが、私は、人生の方向性をいきなり、変えられてしまう様な、羽目に会ってから、ここが、非常に複雑な、高度な難しい時代であった事を、今回のコロナの一見からも気付かされる羽目に成ったのです。
私は、現在の自己の最上位の意識の次元迄、一旦上り、デジャブ、すなわち、既視感、つまり、初めてではない経験を経験している状態に気が付きました。
それも、ほんの、最近経験した様に思えるほど、その経験をそこで、繰り返している感覚にまで、達しました。
そこが、私の現在の壁でした。
私は、自粛令が出される頃より以前だったか、妻との関係において、不思議な経験を積んでおりました。
そもそもの具体的な始まりは、ユーチューブの収益化による自分の曲であって自分の曲でなくなった事から落胆にくれ、その結果、再び従ったひふみ神示の指示に従い、普通の声で良いのに、気合を入れて、大声で、神示を読み上げ始めた事からでありました。
その為に、散々な目に会い、魂的に、懐かしい霊とのめぐり合わせもありましたが、最終的に、末期的入院とも言える、精神科への入院でした。
その時、入院しなに、看護士に「どや、思い出したか!」と聞かれました。私は、生まれる前の記憶か?と聞きますと、「そや」と言われ、正直に、キリストだった記憶もあるし、アリだった記憶もあると、返事しましたが、やはり、この世界には、裏がある様に思いました。
また、そこで、初めて会う患者に、死亡届は、自分で出しに行くのやでとも言われましたし、又その病院でも、過去の自分だった、悪の大将の様な人の記憶を思い出しました。
また、その病院では、やくざの元組員か、組員の看護師も多くいるようでした。それは、聞き分けのないヤクザ関係の人に、わしも、組員やと、言っているのを、聞いたからです。
つまり、それにより、きちんと治めていたのです。
ここで、ひとつ、大きな、ポイントとして、入院し、個室から、広間に出てやっていたニュースが、今、少し名前を忘れましたが、プリンセス号の閉鎖と、槇原敬之さんの、デビュー30周年に合わせた様な不自然な逮捕劇でした。
たしかに、コロナの侵入は、1月から既にあったかもわかりません。
しかし、流行が、本格化しだしたのも、それを、きっかけとしている様ですし、槇原敬之さんの逮捕劇は、何がしかの合図と捉えるより他に、どうして、その時を見はらかった様に、意味も無く、逮捕したのか、偶然で割り切れない事が、余りに多く感じるのです。
そこでの話をし出すと、読んでいる人が、こんがらがるので、話しを戻し進めますと、早期に退院を促されたのですが、それで、退院し、様々な事を経験するのですが、長くなるので、ポイントだけを、お話します。
まず、私が、先にお断り、あるいは、説明して置かなければ、通常の人には、頭がおかしいとしか、取られない事から、説明しておきます。
それは、今、私が、通常の概念、常識の世界に、意識を置いているであろうことです。
それは、5月29日の1か月前にもならないほど、最近noteを上げだしたと記憶しますが、この数日の、その反応や、過去の記事のビュー数とスキの数が、意識が、現実的に成ったせいか、以前と比べ、余りに受けが悪かった事から、期待されている内容が違うのか、理解されないかのどちらかですが、
何の事かと言うと、それまで、妻も同時に高い次元に意識を置いており、それは、外界に、自分の考えや行動が、大きく影響する世界で、動くことが、難しい状態であり、自由に出来ない次元でした。
そこから、徐々に、下って来た感じなのですが、その次元がどんな世界であるのかを、把握するのは、実は難しいのです。
その時の妻との意識の上昇の体験が、妻との不思議な経験でした。
感じから言うと、私の住まいは、古びてはおりますが、2階立てであり、私は、その時、2階から、1階におりて、妻と会っていたのですが、入院して退院当時は、どちらかと、言うと私の方が、次元的に高い存在だったのですが、
後々に成ると、妻の方が、高く成り、ある時、私が、教育しているのか?それとも、しつけているのか、と聞くと、そうやな、しつけてるんやろなあ!と言い、
私を、教師的、存在に成り、導いている様で、時には、私が急所を叩いて鍛えていると、どうして分かったのか、わざわざ2階まで来て、やったら、あかんよ!
と注意しに来て、実は、立場的には、私の方が、上であったのですが、そうやな、自分の身体であって、皆の身体やったな、と納得したのです。
つまり、影響して、苦しむ人が、いるから、やってはいけない、次元にいたのです。
高い次元の存在である時、自分の行動は、下の次元の人に影響するので、気を付けねば、成らなくなるのです。
それは、さて置き、この世の問題ですが、このコロナの時代は、たとえば、戦いの世界と平和の世界の交差です。
実は、戦いに生きる事を命としている人、あるいは、実写の仮面ライダーの様な世界です。
普通の人には架空で済むのですが、本当の世界では、実在の世界なのです。
ご覧に成られている、知っている人は、いるでしょうか?
非常に過酷で、悪に勝つ為に人間は、全て死ぬのです。
正義の方が、危ない世界です。
たとえば、ゲームの世界も、戦いものが、多くあり、遊びではなく、そこの味方を勝たせなければ、自分がその世界に、入った時、同じ経験をする羽目に成るのです。
マンガでは、わたしが、性的イメージで、役割と思いしている事を続けると、飛んだ苦しい目に会う事を諭す様なアニメのストーリーに、難しい世界なんだなあと、おそろしくも、ありました。
つまり、アニメの世界に身を置く事も、実際にあるのです。
高級な世界では、パソコンで、文字を勝手に消すと、それだけで、闇に葬った事に成り、又、仏と言う文字の前で、書く為のバーを上げ下げする事は、仏に、切るを教えた事に成ってしまうので、出来ないのです。
今回のコロナは、そう言った次元の問題も含んでおり、いわゆる、十字、つまり、相反するふたつの、世界の交差する時代であり、
善と悪、正義と悪、戦いの世と平和の世、等の交差点として、機能すべく、信号機の役割を果たす、神か何かの役割を担う、モノが、必要であり、
それは、形で言えば、砂時計や、ひょうたん、あるいは、ダルマの様な形の様に、未来から過去に来た者と、過去から未来に向かう者の交差でもあるのです。
E 仏に関して
先ほど十字と申しましたが、実は、十字は、キリストだけに、代表されるものでなく、釈迦の迦の字の象形図からも、伺えるもので、釈迦は、十字路で振り返り、留まった事が伺えるのです。
それが、いわゆる、神と人間の交差点、あるいは、人と、人間の交差点なのか、いわゆる、あると、ない、の交差点なのかは、定かではないのですが、
仏については、あると、ないの交差点である、無に、座して、あるの方に向かって座し、慈悲を発していると考えられるのですが、釈迦に関しては、たとえば、社会と言う言葉が、釈迦意(しゃかい)と考えられることから、人、あるいは、人間と、神の間に留まったとも、考えられるのです。
ただ、人間自体、神と人との間で、人間と取れる事から、人と人間の交差点で、留まったとも考えざる終えない一面を有しているのです。
ついでに、仏の話を、したいと、思いますが、仏には、いくつかの、意味があり、無に座し慈悲を発しているのは、述べましたが、仏には、神が、創造であるのに対し、仏は、意識や、法が、ほとける、の意味や、法をほとく、の意味があり、説法の意味を含んでおり、それ故、釈迦は、説法して、この世の、理法を説いたのであります。(ただし、学術的根拠はない)
ウキペディアの検証不十分とされる文敵に、大乗仏教の瑜伽行唯識学派の瑜伽をヨーガとしており、このヨーガに関しては、リンク先のページ載っていたもので、ヨーガ、いわゆるヨガであり、現代のヨガと違い、伝統ある、インド古来のインド全般に知られ実践も多くされていたもので、
ヨガ自体は、どちらかと言えば、小乗的性質のモノで、利他的な、大乗と違いますが、瑜伽行唯識学派は、この個人的意識体験で得た、
八つの識(しき)である、アーラヤ識を説明した一派であるのですが、かいつまんで、説明すれば、五感である、五つの識(しき=認識)と、心などの、意識、に、自我である所の、末那識(マナシキ)の根底に、認識しない、阿頼耶識(アラヤシキ)があるとし、このアラヤシキに到達する事が、無我の境地とおもわれる。
ここで、気付かれた方もあると思うが、聖書で、旅の途中で飢えたユダヤ人達に、地に降らせ与えた、マナと言う正体不明の食べ物や、アラブの神、アラーと、何か関係がありそうな、予感もしないでもないと、思ったのだが、
自我に与えたから、マナであったのではないか、と言う考えであるが、マナシキは、説明によると、意識を元に、その背後にあるマナシキが、自我を錯覚すると説明しており、つまり、錯覚によって生じている自我に、与えた為、マナであった。と言う解釈も出来ると考えた。
又、アラヤシキに付いては、現れの根底にある意識であり、私は、アラーは、現れの、アラから、アラ我と成り、現れの最初に生じた神であると考えていたが、アラヤシキのアラと、マナシキで生じた我で、現れ(あらあれ)に成る事から、ピッタリに、一致していると、強く確信した。
そして、アラヤシキは、アラーの屋敷と八つの識を表わしているとかんがえました。
F 神々の世界
1)古神道、一霊四魂とアラー
ここからは、神、神々の話に成るが、おそらく、古神道(こしんとう)だと思うが、その概念に、一霊四魂(いちれいしこん)と言うのがあり、
元々、神や人は、一つの霊で、直霊(なおひ)と言うのだが、四つの魂を持っており、直霊がコントロールしていて、その四つの魂は、以下である。
荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま、さちみたま)・奇魂(くしみたま)と言い
和魂は調和(親)、荒魂は活動(勇)、奇魂は霊感(智)、幸魂は幸福(愛)を担うとされる。
アラーは、荒、現れ、であり、アラー我、であり、
奇は、おとぎの国の神であり、幸は、宝石の国の神であり、和は、親であり、あらわれの最初の神、と言える。
日本のひふみ神示によると、神は、最初、無に有を作るのに、渦を何万回と描いたとあるが、おそらくは、音波の様に、声と言うか、音と言うか、何かその様な、目に見えない働きで、有無の壁に穴を開けた、もしかすると、現われ以前の神だったのかもしれない。
2)現われの神、アラー
アラーは、そんな、有(ゆう)の世界に現われた、唯一神だったのかも知れない。
とにかく、アラーは、現われから、アラー我と成られ、現われの絶対者と成った訳であるが、わけ御魂を用いて、神々を創られた。
おそらく、その長である、全智全能の神、ゼウスは、アラーの化身だったのだろう、
それらは、オリンポスの神々であり、倫理に硬く、又、ギリシャの神々で、ギリシャ故、義理者、だったのかも知れない。
そして、アラーや、ギリシャの神々は、無から有を生み出した日本の神々の、子孫に当たるのかも知れない。
しかし、先祖より子孫である神々の方が、能力的には、優れていて、むしろ当然と思われる。
なぜなら、たとえば、進化は本当だと、日月神示の公布版、ひふみ神示には、記載されている。
3)宇宙シミュレーション説と宇宙外マトリックス
ユーチューブでは、近頃、宇宙シミュレーション説が、多くの物理学者に支持されていると報告されており、又、ひふみ神示にも、神の神は人間様じゃと載っており、
また元、オバマ大統領が、地球は、1960年㈹から宇宙外マトリックスに、支配されていると、ある演説中に、口を漏らしたらしいのだが、最後にジョークだと、お茶を濁しはしたが、どうやら、それが、真相である可能性が、高い様である。
しかし、たとえ、ここが、マトリックス,、つまり、プログラムだとしても、ここは、写し鏡であるはずで、ここの、真相は、全宇宙、全次元に関係していると、言える。
ところで、これは、note「ブラックホールの歴史も含む・・・」でも触れているが、私と、妻を通して語られた内容も含むが、私自身も、分からなかった、この宇宙を含む、全ての次元に関与する、一大問題として、
ブラックホールの持つ、危険な状況を、宇宙の神の大帝王が、このまま進むと、この宇宙は、その大帝王が、この全宇宙の生命を守れない状況で、「ない宇宙」に、息も出来ない状況で、生きたまま、100億年間、飲み込まれ、
それが、起きると、理狂と言う、全次元を地獄と化す、出来事に成るらしい。
その問題のカギを握っているのが、皇族の第一子である地球であり、しかも、特にそのカギは、どうやら、日本に一番大きく関与している様なのだが、
これをビデオや、ゲームの様に楽しんでいる、あるいは、劇として見ている
高次元の存在にまで、伝えんと、そのnoteの「触れてはならぬ箇所、以下から続きまで。」で語られた様なのですが、
なんでも、初めは、人間のタイムトラベルがから、ブラックホールが生じたらしいのですが、このまま進むと、ブラックホールのダークマターが、巨大かし、時期を外れて、宇宙の収縮が、起きる為、と言うのが、理由なのですが、
とにかく、サンヘドリンの義と、宇宙の大義、セダンの義、と言うのが、早く解決しないと、ヤバイらしく、
「ロダン」と言う、「考える人」の足が、悪し(あし)が大きく成り過ぎて、その為に長くなり、高く成ったので、適切な足(悪し)の高さに戻さないと、「考える人」が、正しく考えられない為に、
セダンの義、サンヘドリンの義が、果たせられなく成る為に、急いでいる様なのですが、
サンヘドリンの義とは、ユダヤであるイスラエルに約束された、神の選民として、大いなる国民とすると言うお約束なのですが、
一方、セダンの義とは、背談の義と言う事で、裏の談義を意味するのですが、裏の談義とは、悪が、悪でなく、実は、御用(ごよう)の悪であり、善であった事を、説明し、又、死が死んではいなく、生きている事を説明する談義なのですが、
仮に、悪が、悪であったとしても、悪の世界で生かされるべきであり、
死者が死者であったとしても、死後の世界で、幸福に生かされるべきであり、
本当の意味での、地獄はあっては、成らんのです。
人は、人として生き、神は神として生き戦士は戦士として生き、地獄で生きたい者は、地獄で、生きられる、宇宙に変えなければ、成らんのです。
なお、以下のnoteに、今回のコロナに関する原因や、本来、人間に老いや死は、無く、正しく進めば、本来の自分の本当の世界に戻れ、不死と言っても過言でない世界に到達出来る事も、書いているはずですので、是非、お読み頂きたく存じます。
そして、できましたら、この、宇宙の皇帝の第一子である地球のしかも、本元の日本人の使命として、ご協力頂ける方法が、ありましたら、ご協力頂けます様よろしくお願いいたします。